2016年12月4日日曜日

妹が結びし紐吹き返す


来春からはじまる仕事の打ち合わせのために淡路の野島へ行く。農業者育成の仕事である。農業の仕事をするのだから、まずは土地の神様にご挨拶と考えた。地図で見ると、山の上に社日神社というのがある。社日さんといえば、産砂神様なので、これはお参りしておかないと、と考えたのだが、登っていく道が分からない。淡路島は旧阿波藩領だから、五角形の地神さんの塔があるのかもしれない。春分の社日までにはお参りしようと思う。




柿本人麻呂が旅路で詠んだ歌8首が万葉集に治めらえている。柿本人麻呂の旅の理由は公務であったことは確かであるが、詳しくはよくわからない。時代は600年代後半から700年頃の持統天皇の時代。

淡路島の野島で2首の歌を詠んでいる。

玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近づきぬ
淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

野島蟇浦の沖には、かつて松の生えたのっぺりとした小島があり、その島が「野島」と呼ばれていたという。現在は潮の浸食でなくなってしまっている。

妹は妻のこと。妹が結びし紐は、旅に出る前に、妻が旅の安全を祈って堅く結んだ紐。その紐がどのようなものだったかはよくわからない。





野島八幡神社の社殿は阪神淡路大震災の時に倒壊してしまい。現在のものは、姫路市の播磨国総社射楯兵主神社の三ツ山大祭の門上殿を譲与していただいたものと伊勢神宮の式年の建て替えの際の材木を頂いて作られたと書かれていた。



姫路の三ツ山祭とは、20年に一度行われる大規模な祭りで、二色山・五色山・小袖山の三基の置山が飾られ。二色山には播磨国の大小明神、五色山には九所(くしょ)御霊(ごりょう)大神、小袖山には天神地祇(国中の神々)をお迎えし、お迎えした神々を本殿の神様「射楯神(いたてのかみ)」・「兵主神(ひょうずのかみ)」が、祭りにために特別に神門の屋根の上に設けられる門上殿にお出ましになり、三つの山にお迎えした神々を接遇されて、共に国の平安と発展を祈るというもの。姫路、播磨の地域のみならず、全国の厄災を祓い、平安と発展を祈るというもの。

起源は、藤原純友の乱・平将門の乱を鎮定するためで、天慶2年(939年)に斎行された「天神地祇祭(てんしんちぎさい)」に由来するといわれている。以来、天災や特に国中安泰を願う時に、不定期に執り行われていたが、天文2年(1533年)から、20年に一度の式年となり、20年に一度の三ツ山大祭は臨時祭とよばれ、60年に一度は丁卯祭(ていぼうさい)とよばれる一ツ山大祭が行われることとなった。次回は平成45年に行われる。

淡路島の多くの神社では春と秋の祭りで、だんじりが担がれるが、野島八幡神社でも秋祭りには4台のふとんだんじりが担がれる。


野島は古代より塩の産地。天皇家に贄とよばれる海の幸を献上する御食国(みけつくに)。都までは7日かけて船で運ばれたという。

野島八幡神社の南の開けた高台に、かつて蟇浦城があった。今は水田になっている。

『北淡町誌』によると、大永年間(1521~1528年)に蟇浦藤次常利が阿波の三好元長の家臣として1千石で在城していた。元長の信頼も厚い常利を妬んだ他の城主の讒言により、常利は蟇浦城の開城を求められ。しかし、一切やましいところがない常利は頑として聞き入れず、ついには知行差し止めとなり、浪人となってしまう。その後、炬口城主の安宅監物の子次郎三郎が三好元長に謀反を企てようとしていることを耳に入れた常利は、浪人の身であることも忘れ、浦壁の城主の島田遠江守と共に炬口城を夜討ちした。城主は不意をつかれ由良城の安宅冬宗のところに逃げ延びた。これを知った元長は自らを恥じ、常利を元の蟇浦城に戻した。




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