2016年12月31日土曜日

つぶて石の落ちたところ・風の神様




奈良の葛城の神様が土佐へやってきた。

雄略天皇の4年(460年)。雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと、「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を長谷の山口まで見送った。

『日本書紀』では、雄略天皇が一言主命に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていてる。天皇と一言主は対等の立場になっている。

『続日本紀』の巻25では、「高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された。」と書かれている。

高知県須崎市浦ノ内東分字鳴無にある鳴無神社の社伝縁起によれば、「葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れた。雄略天皇4年2月の大晦日に、この地に流れ着き、神社を造営した。」一言主命は、この地から住まうにふさわしい土地を求め、大岩を投げて、それが落ちたところに引っ越した。

高知県高知市一宮しなね2丁目の現在の土佐神社は、鳴無神社から一言主命が投げた大岩が落ちたところという。その大岩は、土佐神社の東にある「つぶて石」がそれであるという。「つぶて石」の説明によると、この一帯の土地は蛇紋岩でできているが、つぶて石は珪石でできていて、このあたりの岩石ではなく、何らかの理由で運ばれてきた石なのだという。

天平宝字8年(764年)に賀茂氏の奏言によって一言主神は大和国の「葛城山東下高宮岡上」に遷されたが、その和魂はなお土佐国に留まり祀られているという。

797年に完成した『続日本紀』の淳仁天皇の天平宝宇8年(764年)11月7日条によると。道鏡の弟子で道鏡政権の一員として法臣(僧位)に昇り権勢を振るっていた賀茂虫麻呂の子である円興とその弟の従五位下の賀茂朝臣田守らが「昔、雄略天皇が葛城山で猟をされましたとき、老夫に化身していた賀茂氏の氏神の高鴨神が天皇と獲物を競ったことから、天皇が怒ってその老夫(高鴨神)を土佐国に流してしまった」と言上し、それを受けて恵美押勝の乱を制して、淳仁天皇を流刑にし、その後、天皇となった称徳天皇は賀茂朝臣田守を土佐国に派遣して高鴨神を迎え、再び大和国葛上郡に祀った。

一言主神も味鋤高彦根神も葛城の神は風をもたらす神様ではないかと思う。風は稲を育てるために絶対に必要な要素である。しかし、夏に南西からやってくる台風はお米に大きな禍をもたらす。また冬に北西からやってくる寒気は人の命を奪うこともある。

飛鳥の北西には龍田大社があり、祭神は天御柱命・国御柱命。社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神のこととしている。「しなと」は風のことである。

奈良盆地の南西には、味鋤高彦根を祀る高鴨神社があり、風の森がある。

葛城の風の神様が土佐へやってきた理由は、「台風封じ」であったのではないかと思う。土佐神社の森は、「しなねの森」というが、これは「しなと(風)」の意味ではないかと思う。

能の「葛城」では、葛城の神は女神で、その容姿は醜く、役行者に石橋を架けることを命じられたが、醜い顔を恥じて夜しか仕事をしなかったため、石橋は完成できず、そのため役行者にカズラで身を縛られて、三熱の苦しみを与えらえている。三熱の苦しみとは、畜生道という地獄で、龍や蛇が受ける苦しみで、①熱風や熱砂に骨肉を焼かれること。②悪風に住居や衣服を奪われること。③金翅鳥(カルラ)という光り輝く火の鳥に食われること。の3つをいう。

役行者は賀茂氏の出身であるといわれている。葛城は賀茂氏の本拠地であり、自身の氏神を使役して、失敗したからといって罰をあたえるだろうか?

葛城の神は台風の神、暴風雨の神なので、悪さをしないように縛られているのだろうか?




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