2016年12月31日土曜日

つぶて石の落ちたところ・風の神様




奈良の葛城の神様が土佐へやってきた。

雄略天皇の4年(460年)。雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと、「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を長谷の山口まで見送った。

『日本書紀』では、雄略天皇が一言主命に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていてる。天皇と一言主は対等の立場になっている。

『続日本紀』の巻25では、「高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された。」と書かれている。

高知県須崎市浦ノ内東分字鳴無にある鳴無神社の社伝縁起によれば、「葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れた。雄略天皇4年2月の大晦日に、この地に流れ着き、神社を造営した。」一言主命は、この地から住まうにふさわしい土地を求め、大岩を投げて、それが落ちたところに引っ越した。

高知県高知市一宮しなね2丁目の現在の土佐神社は、鳴無神社から一言主命が投げた大岩が落ちたところという。その大岩は、土佐神社の東にある「つぶて石」がそれであるという。「つぶて石」の説明によると、この一帯の土地は蛇紋岩でできているが、つぶて石は珪石でできていて、このあたりの岩石ではなく、何らかの理由で運ばれてきた石なのだという。

天平宝字8年(764年)に賀茂氏の奏言によって一言主神は大和国の「葛城山東下高宮岡上」に遷されたが、その和魂はなお土佐国に留まり祀られているという。

797年に完成した『続日本紀』の淳仁天皇の天平宝宇8年(764年)11月7日条によると。道鏡の弟子で道鏡政権の一員として法臣(僧位)に昇り権勢を振るっていた賀茂虫麻呂の子である円興とその弟の従五位下の賀茂朝臣田守らが「昔、雄略天皇が葛城山で猟をされましたとき、老夫に化身していた賀茂氏の氏神の高鴨神が天皇と獲物を競ったことから、天皇が怒ってその老夫(高鴨神)を土佐国に流してしまった」と言上し、それを受けて恵美押勝の乱を制して、淳仁天皇を流刑にし、その後、天皇となった称徳天皇は賀茂朝臣田守を土佐国に派遣して高鴨神を迎え、再び大和国葛上郡に祀った。

一言主神も味鋤高彦根神も葛城の神は風をもたらす神様ではないかと思う。風は稲を育てるために絶対に必要な要素である。しかし、夏に南西からやってくる台風はお米に大きな禍をもたらす。また冬に北西からやってくる寒気は人の命を奪うこともある。

飛鳥の北西には龍田大社があり、祭神は天御柱命・国御柱命。社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神のこととしている。「しなと」は風のことである。

奈良盆地の南西には、味鋤高彦根を祀る高鴨神社があり、風の森がある。

葛城の風の神様が土佐へやってきた理由は、「台風封じ」であったのではないかと思う。土佐神社の森は、「しなねの森」というが、これは「しなと(風)」の意味ではないかと思う。

能の「葛城」では、葛城の神は女神で、その容姿は醜く、役行者に石橋を架けることを命じられたが、醜い顔を恥じて夜しか仕事をしなかったため、石橋は完成できず、そのため役行者にカズラで身を縛られて、三熱の苦しみを与えらえている。三熱の苦しみとは、畜生道という地獄で、龍や蛇が受ける苦しみで、①熱風や熱砂に骨肉を焼かれること。②悪風に住居や衣服を奪われること。③金翅鳥(カルラ)という光り輝く火の鳥に食われること。の3つをいう。

役行者は賀茂氏の出身であるといわれている。葛城は賀茂氏の本拠地であり、自身の氏神を使役して、失敗したからといって罰をあたえるだろうか?

葛城の神は台風の神、暴風雨の神なので、悪さをしないように縛られているのだろうか?




2016年12月20日火曜日

しお・こおろ・こおろ


貴船神社遺跡は「県営福良江井岩屋線、道路緑化推進事業」に伴い1995年(平成7年)に全面調査が行われた。

調査の結果、兵庫県下最大規模の石敷炉を伴う製塩遺跡であることが判明。その時期は、古墳時代後期のものが主体であったが、一部「丸底Ⅰ形式」(弥生時代末)のものも確認されている。

また、遺構からは縄文時代・奈良時代の遺物も出土しており、長期にわたり営まれた集落遺跡であることが明らかとなった。

炉跡は確認されたもので、総数22基。その内19基は古墳時代末から奈良時代のもので、これは大阪湾沿岸での塩づくりが衰退する時期にあたる。上層遺構からは竪穴式住居跡が見つかっている。この遺構の出土遺物から、この住居跡の築造時期は7世紀初頭とされる。また、調査区北の上層遺構からは石棺墓が検出されている。出土土師器により7世紀初頭と推定された。






塩焼きは、素焼きの土器で海水を煮詰めて作ったと考えらえている。沸騰して溢れそうになったら、棒の先に石を付けたものに海水をつけたものを差し入れて、沸騰してふきこぼれるのを防いだと考えららえている。その姿は、古事記に出てくる天の浮橋の上から、イザナギ・イザナミ両神が矛を海に付き立てて、「塩こおろこおろ」と言ってかき混ぜて、海を固まらせて淡路島を作ったという物語とよく似ている。




朝なぎに 楫の音聞こゆ 御食みけつ国 野島の海人あまの 舟にしあるらし

山部赤人の歌が記されていた。山部赤人は三十六歌仙のひとり。しかし『続日本紀』などの史書には山部赤人の名前は出てこない。天皇の行幸に随伴し、天皇賛歌する歌をたくさん残しているので、奈良時代の神亀・天平期に聖武天皇につかえた下級役人で、宮廷歌人であったのではないかと考えられている。



大地の書物を読み解くのが料理人の仕事


上勝町にできたイタリアンレストラン「ペルトナーレ」は、27歳の若きシェフ表原平さんが経営している。それを応援するために、師匠の奥田政行シェフがやって来られた。奥田政行シェフは東北の方ぽい、すぐれた哲学の持ち主・森羅万象すべてを受け入れる度量の大きい方と感じました。以下講演の要約。

◆アル・ケッチャーノとは

東京で料理人としての修行をしていたのだが、実家のドライブインが倒産し、26歳の時に故郷の山形県鶴岡市に戻り、レストランを始めることになった。お金がないので、幽霊が出るという家賃10万円だけど駐車場が14台付きで、しかも国道沿いという格安物件を手に入れた。さまざまな霊能力者がやってきて、幽霊と対決したが、なかなか手ごわい幽霊だったという。追い払うのは無理と感じて共存して、仲良くする方法を考えた。ヨーロッパの教会の前に泉をつくってあるのは、それなりに意味があるというので、玄関の前に泉を作って幽霊と和解した。お金がないので食器は100円ショップで揃え、メニューブックもつくれないので、黒板に手書きした。


「アル・ケッチャーノ」はイタリア語ではなく、山形庄内弁。「あそこにこんなもの、あったわね」というような意味。ネーミングにはコツがある。頭は「あかさたな」ではじまり、終わりは「おこそとの」で終わる。そして詰まる音である促音を入れると覚えてもらえやすくなる。

「アル・ケッチャーノ」のテーマは「地場イタリアン」その意味は「地元のおいしい食材を食べてもらおう」そして「食で街を元気にしよう!」であった。

山形県というところは、幕末に最後まで徳川側として新政府にたてついたため、港のあるところを県庁所在地にさせてもらえなかった。日本海側で県庁所在地に海がないのは山形県だけ。

1960年代の池田隼人総理大臣のもとで行われた所得倍増計画。確かに所得は増えたかもしれないが、その中身は、地産地消をやめてしまったことではないか?作るところと、売るところを分けて、その間に運ぶ人をつくっただけではないか?物の価格をただ高くしただけではないのか?という疑問があった。遠回りさせて無駄遣いさせるようなやり方であったのではないか?

地元にすごく良い食材があるのに、ほとんど評価されてない。良いものは一度、東京に行って帰ってくる。または、東京での良い評価を、作っている人は知らないということもあった。

頑固な地域性があって、今ではそうでもないが、はじめたばかりは、JAさんなどを通さないで、レストランへ直接販売するということに、すごく抵抗されてしまった。貧乏であったのもあるけでど、農家さんへ出向いて行って、野菜を直接、買うことができないので、積極的にもらうことにした。お金で買わないだけで、基本は物々交換。大根の農家さんのところに、店で出たブリのあらをブリ大根にできるように、ちょうどいい大きさに切り分けて、レシピ付きでもっていったり、店に農家専用シート「グリーンシート」を設置して食べに来てもらうなどをした。

レストランは公民館であるべきだと考えている。人が集まり、出会う場であり、交流する場、いろいろ話しをする場であると考えている。料理人と生産者だけでなく、大学の教授や各種専門家などの知識人が加わってトライアングルをつくることで、世界が広がりはじめる。



野菜のことをもっと知りたいと考えたとき、野菜のおおもとは地質学が基本になるのではないかと思うようになった。

野菜が育つには、水と土と風と太陽がいる。水・土・風・太陽のことがわからないと、究極のところ野菜のことはわからない。大地という書物をじっくりしかっかり読み解いていく。それが料理人の仕事だと考えるようになった。

お客さんの方を向くのと、生産者の方を向くのとでは、料理の味そのものが変わってきた。

トマトは動物に食べてほしくて赤い実をしている。そういう食べてほしいと訴えている野菜は、できるだけ生で、そのままの味を楽しんでもらい。逆に大根のように辛み成分があり、食べてほしくないと訴えている野菜は火を加え味付けをするようにしている。そのものだけで主役になれるのが野菜。そのものだけでは主役になれないのがハーブという区別をしている。

親のつくった借金も返済でき、やりたいことはみんなやったので、後は、人材育成だと考えている。料理人の世界は未だに、昔ながらの徒弟制度で、そういうところで働く若者は、時に心が折れてしまうことがある。都会で疲れた人は、なぜか本能的に北を目指す。北国には、心が傷ついた人を癒す力があるのかもしれない。「アル・ケッチャーノ」には、そういう都会で疲れた料理人の卵が、もう一度再起をかけてやってきたりする。近くのラブホテルが廃業したのを買い取って寮にしている。

地元の若い女性がアルバイトをしたいというと、どんどん受け入れて、自然に付き合うように、それとなく仕向けるということをしている。

男には「誇りと夢を語る」ということが必要で、女には「安定と日々の小さな幸せ」が必要と、かねてから思っている。若い人がいるということは、未来があるということである。若い人がいるということは希望があるということである。と思っている。

人が育つには、「教えてあげる人」「とにかく行ってくれる人」「話を聞いてくれる人」が必要であると、かねてから思っている。

農家さんに後継者がいないという問題を解消するために、庄内平野を食のテーマパークと見立て、農家さんの畑がパビリオンで、そこへおおいに語ってもらう。そこをおとずれた人には、500円ほどの入園料を払ってもらう。そういうツアーを行っている。

世の中で使われなくなると、物は消えて行ってしまう。「売れる物をつくる」その秘訣は、その物が使われる場面をつくることではないかと考えている。それが食べ物であれば、それを食べるシチュエーションをつくることが、何よりも大切だと考えている。東京のレストランで庄内の農産物を使ってもらうように提案をしたりしている。

目の前にあるものに、何でも誠意をもって対応する。物々交換を旨とするとき、その大切さがわかる。

究極の料理は、お母さんの手料理であるという言葉がある。それは相手の望んでいるもの、今まさに食べたいものを、ジャストタイムで作ってあげるから。相手が望んでいるものを用意する。前菜があって、メインがあってなんてルールは、ただの押し付けかもしれない。たとえば遠い道のりをやってきて、疲れている人には、いきなりスパイスの効いた唐揚げでもいいと思う。その人が食べたいものを、望むものを出すことが一番。

争いのタネは、お金か、主導権争い(イニシアチブ)かで、この2つを求めなければうまくいく。まず、第一に相手の願いを叶えてあげること。そうすることで進み始める。何かが始まるときとのタイミングというのは、何か念力みたいな力が働いているといつも感じる。愛は共感するが、愛は見返りを求めない。

◆食の庄内幸福論

山形酒井空港の名前が「おいしい庄内空港」となった。軒先に干し柿がつるしてあるとか、普通の風景の中に食べるものが普通にある。野菜も現代の野菜だけではなく、伝統的につくられ、食べられてきた野菜もある。

庄内地方には、さまざまな特徴を持った土がある。そして、昼と夜の寒暖の温度差が大きく。標高差も大きい。温暖湿潤な気候をベースに、海洋性気候・盆地性気候・山岳気候がある。雪に弱い作物を除くと、すべての作物が栽培されている。春夏秋冬のそれぞれの料理があり、武家の料理・町人の料理・精進料理など文化別の料理がある。海の幸も対馬海流が運んできた幸もあり、豊かな森が育てた幸もあり、最上川の育んだ幸もある。多様な自然が生み出す多様な食がある。庄内平野は、まさに食のミュージアムでもある。食の都庄内として宣伝している。






ファッションと料理は近い関係にある。小さな花が散りばめてあるというのは、北欧のデザイン。長い冬に耐える人々は、春になって花が咲くのをとても楽しみにしている。だから、小さな花柄を散りばめたようなデザインを好む。オリンピックが東京で開催される。そのときは間違いなく和食が注目される。和食を生み出す日本文化、日本の自然が注目される。和食は油を使わない、世界でも珍しい食、そしてダシを使う。四季をめでる繊細な料理。

◆リストランテPERTORNARE(ペルトナーレ)の表原平シェフに贈る言葉

看板料理を作る必要がある。看板料理というのは、相思相愛でないといけない。何よりお客さんから愛される料理である必要がある。手ごろな価格で、しっかり満足できる。また、作り手からも愛される料理でないといけない。作るのが楽しいというものがよい。












森を育て、海を育て、人を育てる


第一回の高知オーガニックフェスタのスペシャルゲストは「NPO法人・森は海の恋人」代表の畠山重篤さん

畠山重篤さんは、1943年に中国の上海に生まれる。終戦後、父の実家がある宮城県唐桑町へ移住。宮城県気仙沼水産高等学校卒業後、牡蠣、帆立の養殖に従事する。

昭和39年頃から気仙沼湾の環境が悪化。たびたび赤潮が発生し、湾内は醤油を流したような茶色の海となった。海苔の生産は急激に減り、ホタテは死にウナギも獲れなくなり、牡蠣養殖にも影響が出始める。1個の牡蠣は呼吸のため1日200リットルもの海水を吸っている。この水と一緒に吸い込んだプランクトンがカキの餌となる。プロロセントラルミカンスという赤潮プランクトンを吸った牡蠣の身が赤くなり「血牡蠣」と名付けられた。この赤い牡蠣は全く売り物にならず廃棄処分するしかなかった。牡蠣養殖に従事する漁師は、廃業寸前まで追い込まれた。昭和59年に研究者の誘いを受けてフランスのカキ養殖を視察。養殖地のひとつのロワール川河口の干潟には、ヤドカリやカニ、小魚、シラスウナギがうごめいていた。そしてロワール川上流には広葉樹の大森林が広がっていることを知り、牡蠣の産地は必ず河口で、その牡蠣の餌となる植物プランクトンは、森と川が育てているのではないか。漁民は海だけではなく、川の流域全体までを考えねばならないのではないかという考えに至る。帰国後、漁師仲間にフランスの状況を説明し、気仙沼湾に注ぐ大川の上流に広葉樹の森を造ろうと呼びかけ、賛同した70名で「牡蠣の森を慕う会」を旗揚げ。しかし、森と川と海との関連は感覚的に理解できても、科学的な裏付けはなく、苦しい日々が続いた。

転機となったのは平成元年(1989年)。松永勝彦北海道大学教授が、海藻が枯れる「磯焼け」について語っているのをテレビで見て、即座に電話をし、翌日には函館ヘ行って、教授に会って直に話を聞いた。海の食物連鎖の基である植物プランクトンの生育にはフルボ酸鉄が必要であり、それは森林の腐葉土層に含まれることを知り、これだと思った。後に松永教授は気仙沼を調査し、気仙沼産のカキやホタテの養分のうち90%が川から来ていることを明らかにした。平成元年の9月、唐桑から約20キロの距離にある室根山の山腹で、漁民たちと室根村の村民たちによる植林が始まる。植樹に酸化してくれた歌人の熊谷龍子さんが「森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく」と歌い、これにより、この運動は「森は海の恋人運動」と名付けられた。(1996年に出版された第3歌集『森は海の恋人』に記載されている。)

植林は毎年6月の第一日曜日に続けられている。大川の上流に植えられた落葉広葉樹は3万本を超え、面積は約10ヘクタールになった。森は海の恋人運動は、全国に広がり、現在15ヶ所以上で行われている。

◆高知県と気仙沼

6月になると、三陸沖に登ってきた鰹を追いかけて高知から漁師の船がやってくる。高知の鰹釣り船は気仙沼を基地としている。鰹の水揚げは日本一多い。土佐の鰹のタタキも気仙沼水揚げのものも多いはず。そういうことで、気仙沼に滞在している高知の漁師さんと恋をして、気仙沼から高知へお嫁に行っている人も多い。

◆自然の復興が人間の復興につながる

東北の大震災による津波は、宮城県の沿岸部を徹底的に破壊してしまった。特に陸地に建てられていた水産業の施設は、ことごとく津波に流され、ほとんど何もなくなってしまった。海の水は真っ黒で、海の生きものは全くいなくなってしまった。ある学者には、毒の水だとさえ言われた。生態系の基盤は植物プランクトン。それがいなくなってしまっては、牡蠣も魚も育たない。とにかく、生態系の基盤がどうなっているのかを知りたくて、プランクトンネットを引いてもらって調査をしてもらった、そうすると震災以前よりも植物プランクトンが増えているということがわかった。地域の復興は生態系の復興からはじまる。植物プランクトンが多いのなら、必ず復興できると確信できた。そこで3人の息子のうち、外へ出ていった2人を「ふるさとの一大事だから」と半ば強引に呼び戻し、ボランティアの方などの助けも借りて、総勢30名が共同体のような塊となって、牡蠣養殖復興プロジェクトを開始した。人間が多いこと、しかも若い者が集まるときの力はすごいもので、どんどん立ち直っていった。

◆牡蠣とトランク

国内各地からの復興のための支援が届く中、フランスのブランドカバンメーカーのルイ・ヴィトンから「森は海の恋人運動」を支援したいという申し入れがあった。板垣退助のトランクはルイ・ヴィトンのもの。板垣退助は欧州政情視察の際にフランス・パリのルイ・ヴィトン社で特注したもので、現存している。2011年に、板垣退助氏の子孫によって高知市立自由民権記念館に寄託されている。木製のフレームに防止加工されたキャンパス生地が張られたもの。

ルイ・ヴィトンという企業は、もともと旅行用トランクが始まりで、キャンバス生地や革張りのトランクの骨組みは木製。ルイ・ヴィトンは、そもそも製材業を営んでいて、自社で森林も所有している。創業者は、仕立て屋が仕立てたドレスを入れる白木の木箱をつくっていた。それが旅行ブームになって、旅行用トランクケースをつくるようになって今の企業に発展した。ヴィトンとはドイツ系のフランス語で「石頭」というような意味で、職人気質というような意味があるという。「森は海の恋人運動」をルイ・ヴィトンは、ひとつの「デザイン」ととらえているとのことだった。

フランス人は牡蠣をよく食べる。その一番の産地はブルターニュ地方なのだが、1971年(昭和46年)に、この地域にフランス国内の生産量のうち97.5%を占めるアンギュラータ牡蠣に寄生虫が蔓延し、5000軒を超える牡蠣生産業者に9000万ドル(約70億円)の損害が出て、フランスの牡蠣は壊滅しそうになった。フランスの牡蠣生産業者は、牡蠣の復活のために、日本の代表的な牡蠣の品種であるマガキの種牡蠣の輸入することを考え、宮城県の北上川河口で生産された種牡蠣が3300トン(約7億5千万円相当)が輸出された。これにフランスの牡蠣養殖は復活するが、これによって現在のフランスの牡蠣の90%は在来種ではなく日本のマガキになっている。

ルイ・ヴィトンが「森は海の恋人運動」を応援するのは、フランスの牡蠣を復活させてくれた宮城への恩返しという意味もある。ルイ・ヴィトンの5代目であるパトリック代表も宮城まで来てくれて植樹をしてくれた。


◆牡蠣と海の鉄分と森の腐葉土

なぜ広島は牡蠣の産地なのか?それは広島市の真ん中を流れる太田川の河口で牡蠣養殖をしていることと大いに関係がある。牡蠣の養殖は大きな河川の河口でないとうまくはいかない。太田川の上流はブナの森で、樹齢100年のブナの木は、1本に付き30万枚の葉を付け、それが秋になると紅葉して落ち葉を散らす。それが腐葉土になって土になる。母岩は鉄分を多く含んだ花崗岩で、その鉄と腐葉土が牡蠣が育つために欠かせない重要な要素となる。

海には鉄分がほとんどない。海に溶け込んだ鉄分は直に酸化されてしまい、植物ブランクトンが利用できないし、海の底に沈んでしまう。ところが腐葉土に含まれているクエン酸やフミン酸などの有機酸が鉄をキレートすると、鉄は酸化されにくくなり、植物プランクトンに吸収されやすくなる。鉄分がないと植物プランクトンは光合成ができず、数も増えない。

植物プランクトンは、硝酸などの無機の窒素を吸収してアミノ酸態などの有機の窒素を合成することができるが、この合成を行う酵素に触媒として鉄がいる。また、合成するためにミトコンドリアの中でブドウ糖を燃料に酸素呼吸を行いエネルギーを取り出すが、これにも鉄がいる。そして、ブドウ糖を合成する葉緑素をつくるためにも鉄がいる。植物プランクトンは鉄がないと生きていけないのである。

三陸沖の海が豊かなのは、世界で8番目の大河川アムール川が、豊かな森の中を流れ。大量の鉄分をキレートして海に流れ出させているから。その鉄分が植物プランクトンを大発生させているから、それを食べる魚がたくさん増える。世界三大漁場とよばれる豊かな海は、シベリアのタイガとよばれる豊かな森と、そこを源とするアムール川によって支えられている。

漁師が山に木を植える。その木は落葉広葉樹で、秋にあると紅葉して落ち葉を落とす。その落ち葉は毎年、毎年、積み重なって腐葉土になっていく。そして、そこに降る雨は、腐葉土から溶け出す有機酸と混じって、山のミネラルとキレート結合して、海まで流れていき、海で植物プランクトンを増やし、牡蠣や魚のエサとなって、豊かな海をつくる。

◆宮沢賢治と赤土と土壌の鉄分

宮沢賢治は農業を教える先生であった。その宮沢賢治が、赤土を田んぼに入れることを進めていた。今でいうところの客土なのだが、赤土の赤は、鉄分の色で、赤土を入れるのは鉄を入れるということだったのではないかと考える。

盆栽が黄色くなってきたら釘をさすという民間療法の方法がある。

蘇鉄は鉄がよみがえると書く。言い伝えによると、織田信長が安土城を築城したときに、全国各地の銘木を集めようということになり、堺市の妙国寺にあったソテツを強引に移植させた。するとそのソテツが「信長に傷つけられたので肥料として鉄くずを与えてくれ」と枕元に現れて懇願したので、鉄を与えるとよみがえった。その事から、鉄で蘇生したので『蘇鉄』という漢字が充てられ、鉄釘が好物と言われるようになったという。

現代の土壌は鉄欠乏になってしまっている。自動車のトヨタの鉄を扱う子会社が2003年から鉄を肥料として売り出している。

日本には3万5千本もの川が海に流れ込んでいる。そして国土の7割が山で、その多くが森林となっている。日本は森が豊かだから、海も豊かで、田畑も実りが豊かになる。アフリカでは、森からの恩恵が少ないので、漁業も、農業も、なかなか困難なものとなっている。

◆森を育て、海を育て、人を育てる

「森は海の恋人」運動は教科書にも採用された。新聞などには「the forest is darling of the sea.」と直尺されていたが、子どもに教えるのに、ほんとうにダーリンやラバーでいいのか、悩んでいたら美智子皇后が考えてくださった。その英訳は 「the forest is longing for the sea,the sea is longing for the forest.」であった。「longing」には「お慕いもうしあげています」という意味があるという。

海と川と森の関係を、未来を担う子どもたちにしっかりと教えていきたいと考え、小学校で体験学習を行っている。海と川と森の関係がしっかり分かっていれば、この国は、ずっと海の幸の豊かな国でいられる。そして農業も栄えていくことだろう。

2016年12月18日日曜日

1600万年前の浅い海の底でのこと



内板によると野島鍾乳洞は、新生代新第三期中新生(約2000万年前)に属し、いわゆる神戸層群の岩屋累層で、カキ、フジツボ等が多く含まれる礫層である。規模は小さいが鍾乳洞としての条件は全て備えており、主洞の長さ250m、高さは平均1mで、高いところは5mに達するものもある。洞底の勾配約10分の1で、淡路では唯一この鍾乳洞だけで貴重な天然記念物である。昭和40年3月に津名高校地学部が発見したもので、兵庫県唯一の鍾乳洞である。



かなりの水量の水が地面の割れ目に吸い込まれていく。野島鍾乳洞の入口はいわゆるドリーネ。





2000万年前、日本海はまだなく、日本列島はユーラシア大陸の東の端にへばりついていた。
1900万年前、後に日本海になる地溝帯が広がり始め、海水が浸入する。
1600万年前、日本列島は、いくつかの島に分かれて存在し、気候は熱帯に属し、現在の沖縄のように、海にはサンゴ礁があり、浅い海にはマングローブが生えていた。マングローブの落ち葉が散っている泥の上には、ビカリアというトゲトゲのある長さ10㎝ほどの円錐形の巻貝が這っている。その泥の中にはスタックヒルギシジミというハマグリほどあるお化けシジミが棲んでいる。ちょっと水深が深いところでは、パレオパラドキシアというカバのような哺乳類が泳いでいる。

パレオパラドキシアは体長は1.5~2.0mほどで、海浜でカバのように水辺を歩いたり、水中に潜ったりする生活をしていたと考えられている。福島県伊達市梁川町の広瀬川河床の梁川層で、1984年(昭和59年)8月21日に発見された梁川標本が有名。現在、福島県会津若松市の福島県立博物館に収蔵されている。

神戸層群の岩屋累層は1600万年前の浅い海の底で、カキやフジツボの化石が見つかっている。


北淡町歴史民俗資料館の階段のところに展示してある「野島鍾乳洞」は、現地の看板に書いてあるとおり、鍾乳洞内の高さは低いところで1mで、人が十分に入れる大きさだったようだ。阪神淡路大震災で入り口のところが崩れて、現在は入れないらしい。




平朝彦著『日本列島の誕生』より


2016年12月16日金曜日

社日神社とは地神塔様でした




地図の上に示された社日神社。しかし、そこへ至る道がわからない。おそらくあのもっこりしたところあたりということはわかるのだけれど。どうしても気になったので、山の尾根から行ってみることにした。

小川にそった細い一本道を登っていくと、その先は直角に折れて、ビワ畑へと続く、また、まっすぐな坂道に。それを登りきると、その道は山の奥へ続いているだけで、社日神社へ向かう道はない。イノシシよけの電気柵が張られている段々畑のあぜ道から、尾根道へ入る。登りすぎているので、降りていく感じ。





御社はなく、地神塔があるだけでしたが、想像したとおりの地神様でした。


無事、お参りでき。帰り路を探すと、しっかりした山道がありました。しかしこの道、少し下ったところで、無くなってしました。北へ向かう路も、南へ向かう路も、うっそうと茂る草に阻まれて進むことができません。かつては畑が営まれ、その畦道だったのだと思われるのですが、耕作放棄されて、もとの山へ戻ってしまっているようでした。



雀のお宿のような、トトロの話に出てくるような路でした。


寛政2年(1790年)。その頃、阿波の殿様であった蜂須賀治昭公は、神職早雲伯耆の建白を受けて、支配地であった阿波国と淡路国全域に地神塔を建てさせ、春分と秋分に一番近い戌の日(社日)に地神祭を行うようにさせたという。つまり、この日は農作業を休みとし、土に感謝すると共に、農業の労をねぎらったという。阿波の人が移り住んだところには、地神塔の風習が伝えられていて、香川の南部、岡山の瀬戸内海沿岸、明治以降に入植した北海道にある。

地神塔は五角形で、それぞれの面に太陽神=天照大神、葦原中つ国の盟主神=大己貴命、薬学の神=少彦名命、五穀の神様=稲倉魂命、土の神様=埴土媛命の名前が記されている。

社日はいわば、社という漢字が表すように「土を示す」つまり土を祀る日のことで、戌の日は「つちのえ」つまり「土の兄」で陰陽五行では「陽土」を示す。社日は、いわば農産物の実りをもたらす土の神様をパワーアップさせるようなおまじない。土地の神様である産土神を春秋の戌の日=社日に祀る風習は、全国にあるようだ。

2016年12月4日日曜日

妹が結びし紐吹き返す


来春からはじまる仕事の打ち合わせのために淡路の野島へ行く。農業者育成の仕事である。農業の仕事をするのだから、まずは土地の神様にご挨拶と考えた。地図で見ると、山の上に社日神社というのがある。社日さんといえば、産砂神様なので、これはお参りしておかないと、と考えたのだが、登っていく道が分からない。淡路島は旧阿波藩領だから、五角形の地神さんの塔があるのかもしれない。春分の社日までにはお参りしようと思う。




柿本人麻呂が旅路で詠んだ歌8首が万葉集に治めらえている。柿本人麻呂の旅の理由は公務であったことは確かであるが、詳しくはよくわからない。時代は600年代後半から700年頃の持統天皇の時代。

淡路島の野島で2首の歌を詠んでいる。

玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近づきぬ
淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

野島蟇浦の沖には、かつて松の生えたのっぺりとした小島があり、その島が「野島」と呼ばれていたという。現在は潮の浸食でなくなってしまっている。

妹は妻のこと。妹が結びし紐は、旅に出る前に、妻が旅の安全を祈って堅く結んだ紐。その紐がどのようなものだったかはよくわからない。





野島八幡神社の社殿は阪神淡路大震災の時に倒壊してしまい。現在のものは、姫路市の播磨国総社射楯兵主神社の三ツ山大祭の門上殿を譲与していただいたものと伊勢神宮の式年の建て替えの際の材木を頂いて作られたと書かれていた。



姫路の三ツ山祭とは、20年に一度行われる大規模な祭りで、二色山・五色山・小袖山の三基の置山が飾られ。二色山には播磨国の大小明神、五色山には九所(くしょ)御霊(ごりょう)大神、小袖山には天神地祇(国中の神々)をお迎えし、お迎えした神々を本殿の神様「射楯神(いたてのかみ)」・「兵主神(ひょうずのかみ)」が、祭りにために特別に神門の屋根の上に設けられる門上殿にお出ましになり、三つの山にお迎えした神々を接遇されて、共に国の平安と発展を祈るというもの。姫路、播磨の地域のみならず、全国の厄災を祓い、平安と発展を祈るというもの。

起源は、藤原純友の乱・平将門の乱を鎮定するためで、天慶2年(939年)に斎行された「天神地祇祭(てんしんちぎさい)」に由来するといわれている。以来、天災や特に国中安泰を願う時に、不定期に執り行われていたが、天文2年(1533年)から、20年に一度の式年となり、20年に一度の三ツ山大祭は臨時祭とよばれ、60年に一度は丁卯祭(ていぼうさい)とよばれる一ツ山大祭が行われることとなった。次回は平成45年に行われる。

淡路島の多くの神社では春と秋の祭りで、だんじりが担がれるが、野島八幡神社でも秋祭りには4台のふとんだんじりが担がれる。


野島は古代より塩の産地。天皇家に贄とよばれる海の幸を献上する御食国(みけつくに)。都までは7日かけて船で運ばれたという。

野島八幡神社の南の開けた高台に、かつて蟇浦城があった。今は水田になっている。

『北淡町誌』によると、大永年間(1521~1528年)に蟇浦藤次常利が阿波の三好元長の家臣として1千石で在城していた。元長の信頼も厚い常利を妬んだ他の城主の讒言により、常利は蟇浦城の開城を求められ。しかし、一切やましいところがない常利は頑として聞き入れず、ついには知行差し止めとなり、浪人となってしまう。その後、炬口城主の安宅監物の子次郎三郎が三好元長に謀反を企てようとしていることを耳に入れた常利は、浪人の身であることも忘れ、浦壁の城主の島田遠江守と共に炬口城を夜討ちした。城主は不意をつかれ由良城の安宅冬宗のところに逃げ延びた。これを知った元長は自らを恥じ、常利を元の蟇浦城に戻した。




2016年12月1日木曜日

里山の用水路の生きもの探検隊(阿南市長生町西方)












































●見つけた生きもの:86種類

①水生昆虫のトンボのヤゴ:8種類
青紋糸トンボのヤゴ・銀ヤンマのヤゴ・大塩辛トンボのヤゴ・羽黒トンボのヤゴ・黄色早苗トンボのヤゴ・腰細ヤンマのヤゴ・小山トンボのヤゴ・小鬼ヤンマのヤゴ

②水泳昆虫の幼虫:10種類
花アブの幼虫・ヘビトンボの幼虫・コ角筒トビケラの幼虫・人形トビケラの幼虫・黒筒トビケラの幼虫・姫トビケラの幼虫・縞トビケラの幼虫・双葉カゲロウの幼虫・ユスリカの幼虫・ユスリカの蛹

③水生昆虫の成虫:3種類
姫ゲンゴロウ・ちびゲンゴロウ・芥子肩広アメンボウ

④トンボの成虫:1種類
秋アカネ

⑤アブ・ハチの仲間:4種類
黒ヒラアブ・花アブの仲間・腰白ハバチ・青虫コマユバチ

⑥蚊・ハエの仲間:2種類
オドリバエの仲間・ユスリカの仲間

⑦チョウの仲間:5種類
黄チョウの成虫・ハバチの幼虫・尺蛾のサナギ・シジミチョウの幼虫・黒筋黄チョウの幼虫

⑧肉食昆虫の甲虫:3種類
紅へりテントウムシ・ハネカクシの仲間・ジョウカイボンの幼虫

⑨草食昆虫のバッタの仲間:2種類
ヒシバッタ・小はねイナゴ

⑩草食昆虫のカメムシの仲間:5種類
青カメムシ・長カメムシの仲間・霞カメムシの仲間・星アワフキ・油虫の仲間

⑪ハムシの仲間:2種類
雷ハムシ・黒瓜ハムシ

⑫カゲロウの仲間:1種類
姫カゲロウの仲間

⑬腐植食昆虫のゴキブリの仲間:3種類
森茶はねゴキブリ・姫森ゴキブリ・森茶はねゴキブリの幼齢虫

⑭クモの仲間:11種類
筋太ハシリクモ・赤筋ハシリクモ・菊月子守クモ・腹黒子守クモ・小花クモ・白金クモ・硫黄色ハシリクモ・雄黒ハエトリクモ・灰色姫クモ・八星姫クモ・赤胸クモ

⑮エビの仲間:2種類
アメリカザリガニ・沼エビ

⑯両生類:1種類
沼ガエル

⑰爬虫類:1種類
縞ヘビ

⑱貝類:6種類
薄皮マイマイ・三筋マイマイ・カワニナ・淡水シジミ・サカマキガイ・平巻水マイマイ

⑲魚類:5種類
カワムツ・ドジョウ・メダカ・フナ・ドンコ

⑳環形動物:3種類
糸ミミズ・血吸ヒル・畑ミミズ

21.その他生きもの:9種類
象ミジンコ・十脚類の水虫・横エビ・トビムシ・アヤトヒムシ・丸トビムシの仲間・ダンゴ虫・ワラジ虫・ムカデ

●見つけた場所:徳島県阿南市長生町西方の里山の縁の用水路

●見つけた人:長生小学校の4年生+桑野川EM研究会のみなさん

●見つけた日:2016年11月15日(午前9:30~12:00)・11月28日(午後14:00~16:00)

樹林に囲まれたやや暗がりといったところを好む大塩辛トンボ・森の中の暗がりを好む羽黒トンボ・避難場所としての樹木がある水辺を好む黄色早苗トンボ・昼間は木陰で過ごし、朝夕に活動する腰細ヤンマなどのヤゴが見つかった。森と平野の境目である森の林縁部は森を守る様々な植物が生えている。その林縁に沿うように流れる用水路を土のまま残すということは、生物多様性にとってとても重要なことだと思う。