2017年1月24日火曜日

海を見下ろす丘にある弥生の鉄器工房遺跡






五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期初め(西暦20~30年頃)から弥生後期末(西暦200年頃)まで、営まれた国内最古で、かつ最大級の鍛冶工房村遺跡。

海岸から約3km入った標高200mの播磨灘を見下ろす南北の尾根筋の西面から東西に延びる枝尾根上に南北約50m・東西約500mの範囲で約170年間にわたり継続的に維持された集落遺構。23棟の竪穴住居のうち13棟に鍛冶遺構がある。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見されている。

この遺跡で一番古いSH-204は石器の工房と考えられている。その後、鉄器の鍛冶工房へ移って行ったと考えられている。



約170年間で5期にわたり 2~3棟の鍛冶工房が枝尾根上を移動しつつ維持された。 この建物跡は、通常の集落と異なり、生活の痕跡は見られず、鍛冶工房に特化した高地性集落であったと考えられる。6キロほど離れた場所にある舟木遺跡は、現在発掘中であるが、その面積は40ヘクタールほどあると考えられている。近くにある舟木石上神社には、巨石の磐座がある。淡路島北部の弥生の遺跡は、弥生中期(紀元前)は少なく。五斗長垣内遺跡が営まれた時代と同じ弥生後期になるとたくさん営まれ、五斗長垣内遺跡が営まれなくなる庄内期になるとぐんと少なくなる。淡路北部の弥生後期の集落は五斗長垣内遺跡を中心に栄えていたといえるかもしれない。



弥生土器の量は土器片でコンテナ約200箱分が出土。小型土器・絵画土器を含む壺・甕・鉢・高杯・器台などの一般的器種であった。

遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、切断された鉄細片など、また石槌や鉄床石(かなとこいし)、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。120点を越える鉄製遺物が発掘され、そのうち70点以上が弥生時代の建物跡から出土。鉄鏃などの小型の製品とともに板状・棒状の鉄片や裁断片などの鉄素材が多数出土し、鍛冶作業が行われていたことを示している。また、竪穴建物跡SH-303からは大型鉄製品の板状鉄斧が発掘された。鉄斧は長さ17.9cm、厚さ1.3cm、刃部幅4.9cm、基部幅が3cm、重さ約263g。基部が狭く刃部にかけて広がるバチ型をしている形状と、両側面から丁寧な鍛打が施されている製作技法などの特徴から、国内で製作されたものではなく朝鮮半島南部で製作された可能性が高いと考えられている。



『魏志倭人伝』には倭国大乱とある。出雲や吉備、または九州の勢力が、北淡路を拠点に、大和勢力と戦争をしていたのだろうか? それとも鉄器の交易をしていたのだろうか? または、天日槍一族と関係があるかもしれない円山川・市川・揖保川を使い日本海側と瀬戸内海を結ぶ鉄の道があったのかもしれない。淡路島は島なので、外部からの侵入に対して守るのには適していたのだろう。

鉄の時代が始まる前の青銅の時代。南淡路と出雲は銅鐸でつながっている。南あわじ市で発見された弥生時代前期末~中期初め(紀元前3~前2世紀)の松帆銅鐸7個のうち5号銅鐸が、島根県出雲市の荒神谷遺跡の6号と同じ鋳型で作られた兄弟銅鐸、また松帆3号は島根県雲南市の加茂岩倉遺跡の27号と兄弟銅鐸であることが分かっている。松帆5号の方が荒神谷のものよりも傷が少なく、先に作られた初期の鋳造の可能性が高いこともわかっている。銅鐸の複数を入れ子状態にする埋葬方法、近くで銅剣も見つかることなど、淡路と出雲では青銅器の扱いにも共通点が見られる。

朝鮮半島の鉄は出雲を経由して淡路に運ばれてきたのではないかと思う。

五斗長(ごっさ)は5斗しかお米がとれない痩せた田んぼという意味。5斗収穫できたら長(おさ)になれたとか。1斗は18リットルだから、5斗は90リットルになる。1斗=10升=100合だから、5斗は500合のお米になる。五斗長は農耕に携わっていない鉄工房の技術職の人への給与の額だったのかもしれない。

垣内(かいと)は塀や柵で囲われた場所の意味。垣内には、交易のための物資を一時的に保管しておく場所の意味があるかもしれない。

弥生時代の高地性集落があることは以前から知られていたが、市町村合併をするにあたり、どこにあるのか場所の特定が行われたが、発掘まではされなかった。遺跡発掘に至った経緯は、ここにもともとあった古い溜池の堰堤が崩壊し決壊してしまい、棚田の田んぼが流されてしまった。それで、その田んぼを修復するための工事をするにあたり、発掘調査を行ったところ、この遺跡が偶然見つかったのだという。








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