2017年1月3日火曜日

魚の網をのがるゝが如し・大吉


厄年ということで、日和佐の薬王寺に厄落しに行く。

醫王山・無量寿院・薬王寺という。神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩が建立した。弘仁年6(815年)、弘法大師42歳のとき、平城上皇の勅命によって本尊厄除薬師如来を刻んで開基した。嵯峨上皇、淳和天皇は勅使を使わされて厄除の祈誓を願われ、承久の乱のあと阿波へやって来た土御門上皇が嘉禄2年(1226年)に皇居として住まわれた。後嵯峨天皇は寛元元年(1243年)に伽藍の再建をして、仁助親王が落慶の法筵に入れられたと伝えられている。


薬王寺に参拝するためには、大量の1円玉がいる。仁王門の右側にある瑠璃殿の事務所で両替してもらえる。


厄を落とすために、厄年の数と同じ段数の石段にお金を落しながら登っていく。女厄坂33段と男厄坂42段がある。急な石段を、そこにたくさん落とされたお金を踏みながら登っていく。お金の落ちるチリン・チリンという音。ザクザクというお金を踏む音。厄が落ちていく感覚というのが体感できる。

お寺の歴史によると文化5年(1808年)に現在の厄坂に改修が完了したという。1808年とはどのような時代だったのだろう。

1770~80年頃に田沼意次が政権を担い、産業・商業を振興させ、貨幣経済が発達し、庶民の識字率も高まり文化教養への興味関心も高まていた。

ところが1783年6月3日にアイスランドのラキ火山が噴火、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山のが1783~85年にかけて噴火し、噴煙が成層圏まで届き、北半球は全域が寒冷化。さらに日本では、1783年4月13日(天明3年3月12日)に岩木山が噴火。8月3日(7月6日)には浅間山が噴火し、東北関東に火山灰を降らせ、これにより天明の大飢饉が起きる。飢饉は1782年(天明2年)~1788年(天明8年)からの6年も続く。杉田玄白が『後見草』にて伝えるところによると、全国で推定2万人の餓死者を出している。

天明の大飢饉から立ち直るために松平定信の寛政の改革(1787~93年)が行われる。1808年はようやく暮らしが立ち直ってきた時代。そして四国遍路が庶民の間でブームになり始めた時代。

四国遍路の88ヵ所のひとつひとつのお寺の配置がしっかりと描かれている『四国遍礼名所図会』は1800年(寛政12年)3月20日~5月3日まで、閏4月を含む73日間の九皋主人の遍路記を、翌年1801年(享和元年)河内屋武兵衛蔵が書写したものが現存している。これに記載されている薬王寺の絵図には、すでに今のように本堂へまっすぐ登る石段が描かれている。

『四国遍礼名所図会』が作られた1800年前後より、現存する古い遍路日記がたくさん存在しはじめる。

1802年の『四国道中手引案内』には「札所の寺にて御印をもらふなり尤も印料として12銭或いは6銅又は3文置くべし」とある。最古の納経帳は1765年(明和2年)のもの。

1802年(享和2年)に十返舎一九による『東海道中膝栗毛』がこの年から刷りはじめられる。これがきっかけというわけではないだろうが、この頃からお伊勢さん・金毘羅さん・信州善通寺などへ庶民が詣でることが流行りはじめる。

1830年には阿波国が発信地となる伊勢お蔭参りが起こる。参詣するときに柄杓をもっていき、それを外宮の北門に置いていくのことが流行った。伊勢神宮の参詣者の数は427万6500人で、1850年当時の日本総人口は3228万人と推計されているので、日本人口の13%の人が伊勢神宮に参詣したことになる。

薬王寺の石段の改修は、御利益を求めて参拝者が増えてきた時期といえる。

1854年12月24日(嘉永7年11月5日)に安政の南海大地震が発生する。ペリーの黒船来航を期に元号が改元されて、嘉永7年は1月1日までさかのぼって安政元年となるため、安政の南海大地震という。この年、嘉永7年6月15日(1854年7月9日)に伊賀上野地震があり、南海大地震の32時間前には東海東南海地震が発生。2日後(約40時間後)に豊予海峡で地震。翌年の安政2年10月2日(1855年11月11日)には江戸で地震。、1858年4月9日(安政5年2月26日)に飛越地震がおこる。

安政の南海大地震で土佐高知は大きな被害を受け、四国遍路の土佐入国を禁止。安政4年に丹後国から巡礼に来た吉岡無量居士夫妻が残した納経帳には、「土州十七ヵ所遥拝処」と記したベージがあり、高知へ入ることができず、高知の17ヵ所の納経と朱印を遥拝所で受けている。この遥拝所は薬王寺にあったのではないかと考えらえている。

1868年に江戸時代が終わり明治となる。


薬王寺はその名の通り、薬の王様。



薬王寺はいわば厄除けテーマパークである。お金を落としながら登る厄坂だけではなく、年の数だけ鐘を叩く「随求の鐘」というのもある。本来は仏舎利を納めた随求の塔の付属のもののようなのだけれど、これを年の数だけ叩けば、つまり鐘を鳴らせば厄が落ちるという。絵馬堂にある大香炉に線香を奉納して、その煙をあびる。これは浅草寺のスタイルと同じ、大香炉は昭和34年に、水産業の徳島喜太郎さんにより寄進されたものらしい。お正月は混雑防止のために一時的に退けられているが、年の数だけ香を搗く臼というのもある。亡くなった祖母はこういうアトラクションが大好きで、すべてに参加し、すべての仏様に1円玉を奉納していたのを思い出す。




薬王寺の本殿の横には肺大師という御堂がある。ここに湧いている湧き水は、瑠璃の水とよばれ、ラジウムを含んでいて肺の病気に効くという。大正初期に大阪衛生試験場でラジウムエマチオンの放射能の作用ある硫化水素泉であることが科学的に立証されているという。

薬王寺の門前にある薬王寺温泉の泉質は含硫黄・ナトリウム・塩化物冷鉱泉(低張性・弱アルカリ性・冷鉱泉)で、ラジウムは含まれていないようだ。この薬王寺温泉は徳島県で最初に営業許可をとった温泉という。

薬王寺の御詠歌は「皆人の病みぬる年の薬王寺 瑠璃の薬を與えまします」という。

瑠璃の水の瑠璃は、仏教世界の中心にそびえ立つ須弥山で産出される仏教の七宝という宝石のひとつと考えられている。無量寿経では「金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)」が仏教七宝といわれている。

瑠璃は「ラピスラズリ」のこと。主にペルシャで産出され、日本には中国を経て伝わる。ヨーロッパにはアフガニスタンから「海路」で運ばれたため、ラピスラズリを原料とする青色顔料は「ウルトラマリン」と呼ばれている。海の町である日和佐に瑠璃色がよく似合う。


寿老人様の撫で仏。中国の仙人で、長寿の神様であり、自然との調和の象徴でもある。







薬王寺のシンボルというべき瑜祇塔は、昭和39年が弘法大師が四国八十八ヶ所の霊場を開創してからちょうど1150年に当たり、また、翌昭和40年が高野山開創1150年に当たるのでこれを記念して建立されたものという。

瑜祇塔とは「金剛峯楼閣一切瑜伽経」という真言密教の経典の内容を具現化したものという。高野山金剛峰寺の名前も、このお経から名づけられているという。お経の内容は、世界は天と地、陰と陽のような相反する2つのものが和合して万物が豊かとなり、そこに人間の労使が相寄って人間社会が平和になるという道理が書かれている。瑜祇とは、まさにヨガのことで、万物と人間の調和というようなことが大事だというようなことが書かれているらしい。





おみくじを引く。「魚の網をのがるるが如し・大吉」だそうだ。



伝説によると、日和佐はもともと和射という地名で、津波の大被害を受けて崩壊してしまっていたときに、弘法大師さんが来られて、東の浜から太陽が昇るのを見て、復興への希望を託して、地名を日和佐に改名したという。

弘法大師こと空海は宝亀5年(774年)生まれ、承和2年3月21日(835年4月22日)に61歳で入定している。弘法大師さんが生きている間に南海大地震は起こっていない。直近は仁和3年7月30日(887年8月22日)に起きている。

奈良時代は「和射」という地名であったことは、平城京跡から出土した木簡などから明らかなのだそうだ。

南の方、海陽町大里松原には、式内社の和奈佐意富曾神社(ワナサオウソ)がある。ワサという地名はこのワナサ神と関係があると思う。



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