2017年1月20日金曜日

植物の生き方を理解するために


◆植物の種子は自分が落ちる場所、芽吹く場所を選べているだろうか?ほぼ選べてはいないだろう。

植物は周囲の環境が悪くても、他の場所へ移動することもできない。

よって植物は、周囲の環境に対してかなり柔軟な対応ができるようになっている。種子が芽吹くとき、まず根が出る。その根からは髪の毛よりも細い根毛が四方八方に無数に出る。この根毛はセンサーのような役割をしている。いったい自分がどのような所で芽吹いたのか?周囲の情報を集め、環境を読み解き、自分がその場で生きぬくための人生設計をしている。

温度は、湿度は、土の固さは、ミネラルなどの栄養素は足りているのか、どのような微生物がいるのか? それらは味方なのか? 敵なのか? そういうことを感じながら、そして考えている。そして自分の中にある先祖から受け継いだ膨大なDNA情報を活用し、生き方を、生き抜く方法を考えているのである。


◆右側は1985317日から同年916日まで開催されたつくば科学万博 85』のテーマ館にて、「協和株式会社」さんが展示された「水気耕栽培(ハイポニカ農法)」のトマトの巨木。1株で17千個のトマトをみのらせた。

協和株式会社代表の野沢重雄氏は、1970年より、植物の潜在能力に注目し、植物の生長を障害する要素をすべて取り除き、植物が生育するのに最適な環境を人工的に作り出すことで、植物の能力を最大限に発揮させることに成功した。植物はもともと海で生まれたので、陸上の土壌というのは植物にとっては、実は栄養が吸収しにくい環境なのではないかという考えの基に、酸素と栄誉分をバランスよく含んだ溶液で水耕栽培した。

その栽培方法は、土を使わない。種から育てる。流速を与え、養液を循環させる。水を循環させる過程で、空気(酸素)を混入する。作物や成長時期に関わらず、同一組成、同一濃度の肥料を投与。根を自由にどこまでも伸ばさせ、植物のもつ潜在能力を最大限まで引き出させることで多収穫を実現。

◆左は、2005年末。兵庫県相生市の歩道脇のアスファルトの隙間に生えた大根。「根性大根・だいちゃん」と名付けられマスコミに取り上げられた。その後、ど根性ナス、ど根性ミカンなど、各地で相次いでど根性野菜が報道された。

ど根性大根は同年11月に何者かによって上半分が折られ、持ち去られてしまう。そのことがニュースで流されると、数日後、上部が元の生えていた場所に戻されているのが見つかり、相生市役所で子孫を残すべく「治療」が行われ、その甲斐あってど根性大根は一時は再生したが、1月に突如状態が悪化し、翌20062月から宝塚市の住化テクノサービスでクローン技術を使った採種措置を受けた。同年6月、培養苗が相生市に返還された。ど根性大根のクローンは、地元学校の給食で食べられた。

◆肥料を全くやらなくても野菜は育つという「無施肥栽培」というのがある。ど根性大根が、無施肥でも、立派に育っていることを考えると野菜を「無施肥栽培」するという方法は可能なのだろう。植物は、どこに種子が落ちるのかを自分で選べないので、芽生えたところの環境に柔軟に耐えることができるということだろう。

「無施肥栽培」を提唱する方の多くが、無施肥でも育つ、その根拠として「自然の森には、誰も肥料をやらないのに、木々は立派に健康に育っている。」というたとえを使う。

しかし、この言葉は、もともと「有機農業」という言葉の生みの親であるアルバート・ハワードの言葉なのではないだろうか? ハワードは植物の生き方を森に学んだ。森は落ち葉を落として、自らの根付く大地を肥やしている。草原も同じで、イネ科の1年草は秋なると倒れて次の世代のための肥料となる。このことからハワードは有機物を活用した農業=堆肥を積極的に使うことで、連作障害がない、病害虫に負けない、生産力の落ちない持続可能性の高い農業生産が可能になると考え実践した。日本の有機農業もハワードのオーガニク・ファーミングを日本語に訳した言葉である。

「無施肥農法」というのは、おそらく日本で独自に進化してきた農法であるといえる。

この農法の背景には、日本の肥料の使用量が非常に多いということに対する「懸念」があるのだと考えられる。肥料がたくさん使用できるというのは、それだけ豊かな国であるということがいえる。世界には肥料が欲しくても購入できない国の方が多い。つまり肥料が自国で作られていないので手に入れることが困難な国の方が、世界には多い。

そのような中、日本は経済的に恵まれ、肥料についても種類も多く、わりと自由に購入できる環境がある。また、日本は人口が1億2千万人と、世界でも10番目に人口が多い国で、自国内に食べる人が多い国であったこともあり、日本の農業は発展してきた。食べる人が多いということが食べものをつくる産業が発展するには欠かせない要素である。

隣の国である韓国で化学肥料・農薬の使用量が日本より多いのは、日本の技術を学んでいるからだといわれている。

欧米での「有機農業」のきっかけは、地力の衰退により、農業を続けていくことが困難になったこと。解決方法として、堆肥や腐植などを土壌に混ぜて地力の回復を図った。有機物を用いた持続可能性の高い農業生産技術として「有機農業」が広まった。

日本の「有機農業」のきっかけは、化学肥料や化学合成農薬が原因で起きる健康被害に端を発し、それらを使わない農業生産方式としてはじまった。その発展した究極が、自然にゆだねる栽培方法である「無施肥栽培」ということになるのだろう。

欧米では生態系保全と地力回復というエコロジーを出発点としているため社会を変える運動へと発展する。日本では安全・安心な食べものを求める消費者運動が中心となって展開されたため、その運動が個人的でエゴイスティックなものとなってしまった。消費者に支えらえた農家の方は後継者が育っているのに、消費者の方は親世代から子ども世代への運動の移行ができず、多くの運動が1世代で衰退してしまった。
ハワードの「オーガニック・ファーミング」を「有機農業」という言葉に翻訳し、日本有機農業研究会を立ち上げ、日本における有機農業をはじめた一楽輝雄先生は、戦後の民主主義社会の中で、農業の持続可能性を求めて農協をつくった人でもある。日本において有機農業が本格的にはじまる、そのきっかけとして伝わっている事件は、1971年に厚生省が国会で「農薬によって母乳が汚染されていること」を認めたことが大きいと言われている。母乳汚染の実態は、厚生省が調査した480例の母親中、β-BHCとDDTは100%で検出され、ディルドリンは77.3%で検出されたというもの。この事実を受けて一楽照雄先生は「母乳を汚染するような農薬を農家は使うべきでなく、母乳を汚染するような農薬を売ることやめられない農協は、本来の農協の働きをしていない。」と嘆き、農協の再生と農協の未来のために新しい農業を提案したそれが有機農業であった。

有機農業と消費者運動が結びつくきっかけとなったのは、1974年10月14日から1975年6月30日まで朝日新聞に連載された有吉佐和子さんの『複合汚染』と考えらえている。すでに水俣病や四日市ぜんそくという公害病が知られていたが、『複合汚染』では、それらを地域のバラバラの問題と捕えるのではなく、すべての人に関わる自然生態系全体の問題として捕えている。小説の中では、化学物質についてあれも悪いこれも悪いといって、どんどん批判するだけで、何も解決方法が示されなかった。「パンドラの箱を開けるからには、最後には希望を残すべき」との非難を受けて、有機農業という希望を書いたといわれている。『複合汚染』には「理想的な農家の経営の姿は5ヘクタールの土地を持って、乳牛1~2頭、豚3匹、鶏や山羊数羽を飼育し家畜の餌は自給。田畑の堆厩肥も自給して地力が回復すれば病虫害に農作物ができる。」と記されている。


人が生きていくには、食べていかなければならない。食べていくためには農産物を確実に生産する必要がある。また、真に健康を求めるなら、健康を守るために必要な野菜の栄養価というものを真剣に考えていかなければならないだろう。

「無施肥栽培」は、肥料すら入れないのだから、土壌に対して危険なものが入る余地がない。何も入れていないのだから、究極に安全で安心なのかもしれない。しかし、収穫し続ければ、「質量保存の法則」に従って、土壌の栄養成分は畑から持ち出される一方で、収穫した分だけ、土壌は痩せていくだろう。未来のどこかの時点では、「植物のどんなところでも生きていける力」も限界に達することだろう。

◆持続可能な農業生産の手法を求めていく必要がある。

かつて日本はたぐいまれなる、とても豊かな国であった。だから個々の人間は、自分の思うがままに、自由に好き勝手にやっていけたのだろう。しかし、これからはそうはいかないかもしれない。人間は生きていくためにもっと、人間同士が助け合う必要があるのではないだろうか?

また、農地という食を得るための人類の財産を、わたしたちの代で食いつぶしてしまわないように、次の世代に良好な状態で、受け継いでいく必要があるのではないだろうか。













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