2016年11月9日水曜日

阿波人に相応しからぬ二人かな

11月7日の徳島新聞のコラム鳴潮によると

戦前活躍した評論家である三宅雪嶺が
「阿波人に相応しからぬ二人かな」と詠んだという。
この徳島人らしくない2人とは、大塩平八郎と岡本監輔だという。

大塩平八郎が大阪出身の人であること明らかだが、近年まで、徳島出身であると長く言われていた。大塩平八郎の祖父である大塩政之丞は、阿波蜂須賀藩の重臣稲田家の家臣の家の生まれ、脇町の出身で、大阪の与力の大塩家に養子に入っっている。これが後に混同されて、大塩平八郎徳島人説が唱えられるようになったと考えらえている。

大塩の死後、大坂・京都・江戸の奉行所に大塩の挑戦状が届いたり、大塩署名の張り紙があちこちに張られたりした。

大阪市天王寺区城南寺町六の龍渕寺の秋篠昭足の墓にある碑文には「秋篠氏は平八郎の縁者であり、乱の謀議にも参加し、乱の後は、平八郎ら同志12人とともに河内に逃走、大塩父子はその後海路で天草島に潜伏、清国を経てヨーロッパに至った」と記されている。

大塩平八郎が生きているという噂は幕末まで続き、アメリカのモリソン号に大塩が乗って攻めて来るという流言もあった。大正期に宮武外骨が出した本には「あまりに庶民が大塩生存説を唱えるので、奉行所は一度埋めた大塩父子の遺体を掘り起こし、市中引き回しにした」というエピソードが書かれている。

岡本監輔は、天保10年(1839年)徳島県穴吹町三谷の小農に生まれる。懐に書物をしのばせて農作業をするほどの読書好きであったと伝わる。各地の高名な学者の元で学ぶうちに、北辺の事情を知り、国防を憂え、熱誠をもって当局を動かし、27才の時、単身カラフトへ渡り、カラフトの全海岸を踏査した。

慶応四年(1868年)1月、戊辰戦争の最中、侍従清水谷公考に会い、カラフトの現況を訴え、清水谷の建議により、朝廷は箱館裁判所を設置し、清水谷を総督に、岡本監輔を権判事・樺太担当に命じ、岡本監輔は、移民を連れてカラフトに渡り、クシュンコタンに公議所を設置しカラフト開拓を始める。

前野五郎は上士である前野健太郎の次男で、出奔して京都にて新選組に入り、天満屋事件に参加。新撰組が分裂した後、は永倉新八らと靖兵隊を組織し、野州、奥州を転戦。その戦いの中で、岡本監輔という同郷の者が、ロシアが北方を侵略しようとしていることを憂い、単身でカラフトへ渡ったことを知り、明治元年の秋に、戦線を離れ、カラフトへ渡り、岡本の右腕として、役人に取り立てられ、作業現場の監督などの仕事に就く。

明治2年(1869年)6月にロシア艦隊がアニワ湾に接近し、公議所にほど近いバッコドマリにロシア人200人を上陸させ、家屋を建設し始める。岡本がいくら抗議しても、作業をやめない。そこで岡本は東京へ行き、事情を訴え、明治新政府は岡本を「樺太担当判官」に命じ、新たに開拓移民300人を連れて、秋にカラフトへ戻るが、ロシア兵側は、やってきたのが農民だけと知って、その横暴は逆に酷くなった。樺太担当の開拓次官に就任した黒田清隆は、カラフトを視察し、ロシアとの紛争を避けるために、樺太の開拓使の廃止を提案した。岡本はこれに抗議し辞職。故郷徳島に帰り、前野も辞職し、札幌で遊女屋を始める。

その後、明治8年(1875年)、樺太千島交換条約が締結され、カラフトはロシア領になり、千島が日本領になる。

岡本は東大講師などを歴任。学徒教育と著述によって愛国の志をのべ、著書60種、中には、新中国誕生の機縁をなしたものもある。この間、台湾に渡って国語を教え、戦後3回、中国に旅してその国情を視察している。

明治24年(1891年)、岡本は53歳になっていたが、北方開拓の夢が捨てきれず、千島開拓を志し、同士を集め、エトロフ島に千島議会を興す。前野は遊女屋を閉め、稼いだ金を千島開拓の費用として岡本を助ける。しかし、前野はエトロフ島の海岸の調査中に自身の銃が暴発し死去。札幌の里塚霊園に墓がある。

岡本は、明治27年(1894年)から3年、旧徳島中学校の校長となり、明治37年(1904年)日露戦争の半ば、東京で病により没す。享年66才であった。

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