2016年11月4日金曜日

肉まんの季節


『事物紀原』は、11世紀、中国の北宋の時代のもの。全10巻で、宋の高承の撰という。天文・地理・暦数・草木鳥獣・風俗など55部門に分類。1768の事物の起源を古籍から原文を引用して記してある。

『事物紀原』によると「饅頭」は、諸葛亮孔明が発案したという。『事物紀原』の「饅頭」が後の明代に書かれた『三国志演義』に収録されて有名になる。

西暦225年、孔明が南蛮を平定し、成都へ引きあげる帰り道。途中の瀘水(ろすい)という河が氾濫していて、立ち往生した。土地の人は「この河には、荒神がいて、時に荒れ狂う。これを鎮めるには49個の人間の首を捧げなければならない」という。

孔明は「合戦で多くの人が死んだのだ。もう一人も殺すことはできない。」と考え、料理人を呼んで小麦粉をこねて人の頭の形に作らせ、中に羊や豚の肉をつめて蒸し上げるように命じ、それを河の神に供えて祈った。すると氾濫は鎮まり、蜀軍は無事に河を渡ることができたのだという。

饅頭はもともとは、蛮族の頭を意味する「蛮頭」(ばんとう)と呼ばれたが、後に食用となり、食べ物を意味する「饅」(まん)の字に転じて「饅頭」(まんとう)と呼ぶようになった。これが肉饅頭(肉まん)の起源であり、日本に入って来てから「頭」が「ず」と訓読みされ、「まんず」が転じて「まんじゅう」と呼ばれるようになった。

北宋時代に中に具が入っている饅頭は包子(パオズ )と呼ばれることが多くなり、現在の中国でマントウといえば、中に餡も具も入っていない一種の蒸しパンを指すのが普通となっている。上海などの方言では、具が入っていても、入っていなくても、マントウという。

ベトナムや朝鮮にも「マントウ(饅頭)」という言葉がある。モンゴル語やペルシア語でもマントウから派生した言葉が使われている。


古代中国には、神にささげる生贄の風習があったことが伝えられている。日本文化では血を穢れとして嫌う。生贄の風習がいやで、または生贄になるのを免れて、海を渡って逃げてきた人たちが作った国が日本なのではないかと思う。

日本における饅頭の記録は、1349年(南朝の正平4年、北朝の貞和5年)に禅宗の僧と一緒に中国から渡来した林浄因が日本に伝えた。禅宗のお茶と一緒に食べる菓子として饅頭を用いる事を考えた。本来の仏教では肉食は禁じられていないが、日本では肉食を禁じているので、肉の代わりに小豆を使った餡をいれる饅頭が考案されたと言われている。その後、林浄因は奈良の漢國神社の近くに住居して、塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社が、饅頭神社として、菓祖神として祀られている。

林浄因が伝えたとされる年より100年ほど前の1241年(仁治2年)に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多で、その製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂(現在の博多駅前一丁目)に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた「御饅頭所」という看板が、現在、東京の赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉を使う「薬饅頭」で、博多の方は甘酒を使う「酒饅頭」とされる。

日本には、主食としておかずとして、小麦の粉ものを食べる風習が、あまり根付かなかったので、お菓子として、餡子をいれる「あんまん」が主流となったのではないかと考えられている。


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