2016年11月10日木曜日

恋しくば尋ね来て見よ













信太森は、奈良時代の和銅元年旧2月初午の日に元明天皇が楠の神木の化身である白龍に対して祭事を行ったことを縁起としている。信太森神社はその神木を御神体とした神社として建立された。

43代元明天皇の在位期間は慶雲4年7月17日(707年8月18日)~和銅8年9月2日(715年10月3日)。天明天皇の和銅年間には、全国に3万社ある稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社が創建されている。天明天皇の時代に稲荷信仰が始まったといえる。

白龍神社でなく稲荷神社になったのにはある物語がある。

葛の葉狐の伝説という。母親がキツネだったという陰陽師の天才の安倍清明の出生譚である。



平安時代の中期。第62代村上天皇の時代。在位は天慶9年4月28日(946年5月31日)~康保4年5月25日(967年7月5日)。河内国の石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森に行き、野狐の生き肝を得ようとする。

摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白キツネを助けてやるが、その際にケガをしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子どもをもうける。

童子丸が5歳のとき、庭に咲く美しい菊の花に目を奪われて、うっかり尻尾を出してしまい。葛の葉の正体がキツネで、保名に助けられた白キツネであることが知れてしまう。次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。

恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信太の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り、別れる。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった。

吉野裕子著『ものと人間の文化史39 狐 陰陽五行と稲荷信仰』1980年法政大学出版局の中に鳥居が赤い理由は、もともと水害を封じる呪術であり、水と火のバランスを整える呪術であったからという説を見つけた。

陰陽五行では水気は、土剋水であり、有り余る強大な水のパワーを土気で封じる呪術があり。これが稲荷信仰のはじまりであるという。土は黄色であり、キツネなのは狐色が黄色だからであるという。

稲荷信仰の発祥の地は、伏見稲荷。それを誘致したのは秦氏といわれている。

『日本書紀』欽明記にはじめて秦氏が登場する。
欽明天皇は「もし秦大津父という者を探して召し出され、御寵愛になれば、必ず将来、御位に即くことができるだろう」という霊夢をみられ、国内広く探された、すると山背国紀伊郡深草の里で見つけられた。秦大津父はすぐに召され、天皇即位の後に大蔵卿になった。

『山背国風土記』によると
秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稲梁を積みて富み裕ひき、乃ち餅をもちて的となししかば、白き鳥となりて飛び翔けりて山の峯にをり、伊禰奈利(いなり)生ひき。
その子孫は祖先の非を悔いて、社の木を根こじて家に植えた。その木が根つけば吉、枯れたら凶という。
伏見稲荷を創建した渡来系氏族秦氏が朝鮮半島経由で中国からもってきた信仰が基礎となっていると考えられる。
稲荷鎮祭のはじまりは和銅4年の卯月午日であったという。
和銅元年から3年まで、長雨が続き、不作が続いていた。和銅5年は暦では「壬子」であり、60年に一度回ってくる最強の水気の年。これを警戒して、迎え撃つ呪術が稲荷鎮祭であったという。


元明天皇が即位した707年の翌年。
和銅元年7月に隠岐国で長雨大風で、諸国に疫病がはやる。
和銅2年3月、再び隠岐国が飢え、5月には、河内・摂津・山背・伊豆・甲斐の5か国で連雨で稲苗を損じた。
和銅3年3月、平城京への遷都4月には旱で諸社に奉幣し、雨乞いをした。ところが6月は長雨。
和銅4年6月に「去年霖雨、麦穂既傷」という記録がある。
和銅5年秋7月、伊賀国より玄狐が献じられる。この出現は、祥瑞とされた。
玄は黒、黒が水気の象徴。狐は土徳なので、土剋水となり、水気を抑える力がある。
狐が馬に乗った「伏見人形」の意味は、十二支の火の象徴である午=馬
「火生土」より土徳のある黄色い狐が生じ、馬は狐に活力を与える。
稲荷神社の赤い鳥居は火の象徴。「火生土」で水気を封じる力があり、土気に活力を与える力がある。



信太の森の江戸時代の様子。うっそうとした森ではなく、周りは田畑になっていて、木の量は、今とあまりかわらないのではないかと思われる。




第65代花山天皇は永観2年10月10日(984年11月5日)~寛和2年6月23日(986年8月1日)
熊野行幸の際「千枝の楠(ちえのくす)」の称を与えた。

信太の森は多くの歌に詠まれた。

いづみなるしのだのもりの楠の木の千枝にわかれてものをこそ思へ(古今和歌六帖)
    
道のべの日かげのつよくなるままにならす信太のもりの下かげ(拾遺集・藤原定家)
    
よひよひに思ひやいずるいづみなるしのだの森の露のこがらし(御集・後鳥羽院) 
    
うつろはでしばししのだの森をみよかえりもぞする葛のうら風(新古今集・赤染衛門)
     
秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみがおには見らしとぞ思ふ(新古今集・和泉式部)
    
秋の月しのだの森のちえよりもしげきなげきやくまになるらむ(山家集・西行法師)
    
千枝にもる信太の森の下露にあまる雫やほたるなるらむ(建保百首・僧正行憲)

ほととぎす今やみやこへいづみなる信太の森の明け方のこえ(建保名所・正三位知家) 

過ぎにけり信太の森のほととぎすたえぬ雫を袖にのこして(新古今・藤原保孝)

いづみなる信太の森は老いにけり千枝とはきけど数は少なき(玉吟集・家隆)
  
我が恋いはしのだの森のしのべども袖の雫にあらわれにけり(御集・後鳥羽院)

清少納言『枕草子』96段は森づくし。

森は大荒木の森・しのびの森・こごひの森・木枯らしの森・信太の森・生田の森・うつつきの森・きくたの森・岩瀬の森・立聞の森・常盤の森・くろつきの森・神南備の森・うたたねの森・浮田の森・うへつきの森・石田の森・かうだての森

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