2016年11月23日水曜日

高品質・良食味・多収穫のお米作りを目指した勉強会

高品質・良食味・多収穫のお米作り

Ⅰ.秋ワラ処理は絶対必要。
①ワラを分解するのはバチルス菌。バチルス菌が消化酵素をつくるのに苦土が必要不可欠。水酸化マグネシウムを施肥する。ワラには天然の納豆菌の仲間がたくさんついている。それらを活性化させるには、苦土(マグネシウム)が必要。
②酢物は腐りにくい。田んぼが酸性なら、ワラは腐食分解しにくい。カキガラ石灰を入れてpH=6.5にする。
③ワラのC/N=50くらい。ワラには窒素が足りない。発酵鶏糞で窒素と発酵菌を補ってやることで、腐食分解を促進。

ワラの腐食分解には積算温度で600℃×日が必要。20℃なら30日くらい。台風の襲来などで、田んぼに入れないときもあるが、時期が遅くなっても、秋ワラ処理はやった方が良い。
腐食分解をしているのは、酸素が必要な好気性菌による分解のため、あまり深く鋤き込むと分解しにくい。

ワラの分解の目安は、切りワラの両端を引っ張ってちぎれるかどうかで判断する。新鮮なワラなら絶対にちぎれない。ちぎれるということは、センイの中に水が浸みこんでいるから、だから、ひっぱたら、ちぎれる。浮いているワラは水をはじいているので腐っていない。

Ⅱ.いっせいに活着・いっせいに分ケツ・いっせいに出穂の三拍子がそろわないといけない。

この三拍子がそろうと、稲の姿が扇形ではなく、穂の位置がすべて同じ高さになる。
遅れて出てくる穂は、稲刈りまでに熟さないので、収穫できない。そういう無効分ケツがない。
40本も分ケツしても、半分しか収穫できないとなると、収量は上がらない。
止め葉の大きさが肘から手先までの長さを超えるほど大きくなる。
一茎あたりの粒数も多くなる。普通は120粒くらいのところ160粒くらいになる。
粒が多くても、中身が熟していない殻だけの実ではいけない。

すべての実を熟して、収穫しなければ、多収穫にはならない。ゆえにいっせい出穂が重要になる。


「なっとく有機」は徳島県の南の方でしか手に入らない有機米をおいしくする肥料。地鶏阿波尾鶏の発酵鶏糞50%に地鶏の出荷できない部位50%、頭とか血とかを熱湯でボイルして殺菌して、発酵鶏糞の発酵菌で鶏の残さのタンパク質をアミノ酸に分解したもの。

左は化学肥料で栽培。右は「なっとく有機」で栽培。右の「なっとく有機」の方が、根の伸びも長く、深く、葉の幅も広く大きいことがわかる。「なっとく有機」は溶けやすく、溶けやすい分、吸収もよく、生育もよくなる。窒素をアミノ酸態で供給できる発酵肥料は、細胞をつくるときに、光合成によって生産された炭水化物をあまり消費することなく、細胞をつくることができ、炭水化物を植物体内に余らせることで、セルロースでできた外壁を強化できたり、生長のためのエネルギーをたくさん使えたり、ミネラルを溶かして吸収するために、根から出す根酸を増やすこともできる。

はじめの「いっせい活着」でつまずかないことを重視する。そのための準備を行う。

①苗の工夫→稲苗をつくるときに「みみず覆土」を使う。根の張りを良くする効果がある。
②田んぼの工夫→元肥として「なっとく有機」を使う。水を入れる前の乾いている田んぼに「なっとく有機」を均一に散布しトラクターで耕転する。入水するときに酵母菌液を流し込む。ここで重要なのは、酵母菌液の活性度合が重要になる。ドライイーストの酵母菌を黒砂糖で目覚めさせて、活性がピークになったころに田んぼに移し、有機質肥料である「なっとく有機」を食べさせ、酵母菌をさらに増やす。酵母菌は田んぼの深いところまで浸み込んでいき、炭酸ガスを発生させるので、土壌を団粒化させて、稲の根を深くし、根の量を増やすことになる。また、酵母菌はさまざまな生理活性物質をつくり、稲に供給するため稲の生育がよくなる。酵母菌の培養は、稲苗用の育苗ハウスの中なら、4~5時間で完了する。酵母菌が活性化してくると、pHが下がり始める。4.5くらいまで下がったら完成。



Ⅲ.抑草対策
「なっとく有機」を表層施肥するとトロトロ層ができて雑草が生えにくくなる。
①「なっとく有機」による表層の濃度障害。雑草のタネの発芽したての弱い根や芽に高濃度の肥料を吸収させて焼いてしまう。
②ミジンコなどの微生物の活性により水が濁り、光が遮蔽される。ミジンコなどの微生物の活性には、水田土壌から発生するガスが、硫化水素やメタンのような有毒なものでなく。酵母菌由来の炭酸ガスで、稲の根が健全で、根からの酸素の供給が多いことが重要。



Ⅳ.水酸化マグネシウムの追肥
田植後、1ヶ月くらいで、水酸化マグネシウムを1反あたり20キロほど追肥する。これは土壌の微生物の活性のため。


2016年11月10日木曜日

恋しくば尋ね来て見よ













信太森は、奈良時代の和銅元年旧2月初午の日に元明天皇が楠の神木の化身である白龍に対して祭事を行ったことを縁起としている。信太森神社はその神木を御神体とした神社として建立された。

43代元明天皇の在位期間は慶雲4年7月17日(707年8月18日)~和銅8年9月2日(715年10月3日)。天明天皇の和銅年間には、全国に3万社ある稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社が創建されている。天明天皇の時代に稲荷信仰が始まったといえる。

白龍神社でなく稲荷神社になったのにはある物語がある。

葛の葉狐の伝説という。母親がキツネだったという陰陽師の天才の安倍清明の出生譚である。



平安時代の中期。第62代村上天皇の時代。在位は天慶9年4月28日(946年5月31日)~康保4年5月25日(967年7月5日)。河内国の石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森に行き、野狐の生き肝を得ようとする。

摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白キツネを助けてやるが、その際にケガをしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子どもをもうける。

童子丸が5歳のとき、庭に咲く美しい菊の花に目を奪われて、うっかり尻尾を出してしまい。葛の葉の正体がキツネで、保名に助けられた白キツネであることが知れてしまう。次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。

恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信太の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り、別れる。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった。

吉野裕子著『ものと人間の文化史39 狐 陰陽五行と稲荷信仰』1980年法政大学出版局の中に鳥居が赤い理由は、もともと水害を封じる呪術であり、水と火のバランスを整える呪術であったからという説を見つけた。

陰陽五行では水気は、土剋水であり、有り余る強大な水のパワーを土気で封じる呪術があり。これが稲荷信仰のはじまりであるという。土は黄色であり、キツネなのは狐色が黄色だからであるという。

稲荷信仰の発祥の地は、伏見稲荷。それを誘致したのは秦氏といわれている。

『日本書紀』欽明記にはじめて秦氏が登場する。
欽明天皇は「もし秦大津父という者を探して召し出され、御寵愛になれば、必ず将来、御位に即くことができるだろう」という霊夢をみられ、国内広く探された、すると山背国紀伊郡深草の里で見つけられた。秦大津父はすぐに召され、天皇即位の後に大蔵卿になった。

『山背国風土記』によると
秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稲梁を積みて富み裕ひき、乃ち餅をもちて的となししかば、白き鳥となりて飛び翔けりて山の峯にをり、伊禰奈利(いなり)生ひき。
その子孫は祖先の非を悔いて、社の木を根こじて家に植えた。その木が根つけば吉、枯れたら凶という。
伏見稲荷を創建した渡来系氏族秦氏が朝鮮半島経由で中国からもってきた信仰が基礎となっていると考えられる。
稲荷鎮祭のはじまりは和銅4年の卯月午日であったという。
和銅元年から3年まで、長雨が続き、不作が続いていた。和銅5年は暦では「壬子」であり、60年に一度回ってくる最強の水気の年。これを警戒して、迎え撃つ呪術が稲荷鎮祭であったという。


元明天皇が即位した707年の翌年。
和銅元年7月に隠岐国で長雨大風で、諸国に疫病がはやる。
和銅2年3月、再び隠岐国が飢え、5月には、河内・摂津・山背・伊豆・甲斐の5か国で連雨で稲苗を損じた。
和銅3年3月、平城京への遷都4月には旱で諸社に奉幣し、雨乞いをした。ところが6月は長雨。
和銅4年6月に「去年霖雨、麦穂既傷」という記録がある。
和銅5年秋7月、伊賀国より玄狐が献じられる。この出現は、祥瑞とされた。
玄は黒、黒が水気の象徴。狐は土徳なので、土剋水となり、水気を抑える力がある。
狐が馬に乗った「伏見人形」の意味は、十二支の火の象徴である午=馬
「火生土」より土徳のある黄色い狐が生じ、馬は狐に活力を与える。
稲荷神社の赤い鳥居は火の象徴。「火生土」で水気を封じる力があり、土気に活力を与える力がある。



信太の森の江戸時代の様子。うっそうとした森ではなく、周りは田畑になっていて、木の量は、今とあまりかわらないのではないかと思われる。




第65代花山天皇は永観2年10月10日(984年11月5日)~寛和2年6月23日(986年8月1日)
熊野行幸の際「千枝の楠(ちえのくす)」の称を与えた。

信太の森は多くの歌に詠まれた。

いづみなるしのだのもりの楠の木の千枝にわかれてものをこそ思へ(古今和歌六帖)
    
道のべの日かげのつよくなるままにならす信太のもりの下かげ(拾遺集・藤原定家)
    
よひよひに思ひやいずるいづみなるしのだの森の露のこがらし(御集・後鳥羽院) 
    
うつろはでしばししのだの森をみよかえりもぞする葛のうら風(新古今集・赤染衛門)
     
秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみがおには見らしとぞ思ふ(新古今集・和泉式部)
    
秋の月しのだの森のちえよりもしげきなげきやくまになるらむ(山家集・西行法師)
    
千枝にもる信太の森の下露にあまる雫やほたるなるらむ(建保百首・僧正行憲)

ほととぎす今やみやこへいづみなる信太の森の明け方のこえ(建保名所・正三位知家) 

過ぎにけり信太の森のほととぎすたえぬ雫を袖にのこして(新古今・藤原保孝)

いづみなる信太の森は老いにけり千枝とはきけど数は少なき(玉吟集・家隆)
  
我が恋いはしのだの森のしのべども袖の雫にあらわれにけり(御集・後鳥羽院)

清少納言『枕草子』96段は森づくし。

森は大荒木の森・しのびの森・こごひの森・木枯らしの森・信太の森・生田の森・うつつきの森・きくたの森・岩瀬の森・立聞の森・常盤の森・くろつきの森・神南備の森・うたたねの森・浮田の森・うへつきの森・石田の森・かうだての森

2016年11月9日水曜日

阿波人に相応しからぬ二人かな

11月7日の徳島新聞のコラム鳴潮によると

戦前活躍した評論家である三宅雪嶺が
「阿波人に相応しからぬ二人かな」と詠んだという。
この徳島人らしくない2人とは、大塩平八郎と岡本監輔だという。

大塩平八郎が大阪出身の人であること明らかだが、近年まで、徳島出身であると長く言われていた。大塩平八郎の祖父である大塩政之丞は、阿波蜂須賀藩の重臣稲田家の家臣の家の生まれ、脇町の出身で、大阪の与力の大塩家に養子に入っっている。これが後に混同されて、大塩平八郎徳島人説が唱えられるようになったと考えらえている。

大塩の死後、大坂・京都・江戸の奉行所に大塩の挑戦状が届いたり、大塩署名の張り紙があちこちに張られたりした。

大阪市天王寺区城南寺町六の龍渕寺の秋篠昭足の墓にある碑文には「秋篠氏は平八郎の縁者であり、乱の謀議にも参加し、乱の後は、平八郎ら同志12人とともに河内に逃走、大塩父子はその後海路で天草島に潜伏、清国を経てヨーロッパに至った」と記されている。

大塩平八郎が生きているという噂は幕末まで続き、アメリカのモリソン号に大塩が乗って攻めて来るという流言もあった。大正期に宮武外骨が出した本には「あまりに庶民が大塩生存説を唱えるので、奉行所は一度埋めた大塩父子の遺体を掘り起こし、市中引き回しにした」というエピソードが書かれている。

岡本監輔は、天保10年(1839年)徳島県穴吹町三谷の小農に生まれる。懐に書物をしのばせて農作業をするほどの読書好きであったと伝わる。各地の高名な学者の元で学ぶうちに、北辺の事情を知り、国防を憂え、熱誠をもって当局を動かし、27才の時、単身カラフトへ渡り、カラフトの全海岸を踏査した。

慶応四年(1868年)1月、戊辰戦争の最中、侍従清水谷公考に会い、カラフトの現況を訴え、清水谷の建議により、朝廷は箱館裁判所を設置し、清水谷を総督に、岡本監輔を権判事・樺太担当に命じ、岡本監輔は、移民を連れてカラフトに渡り、クシュンコタンに公議所を設置しカラフト開拓を始める。

前野五郎は上士である前野健太郎の次男で、出奔して京都にて新選組に入り、天満屋事件に参加。新撰組が分裂した後、は永倉新八らと靖兵隊を組織し、野州、奥州を転戦。その戦いの中で、岡本監輔という同郷の者が、ロシアが北方を侵略しようとしていることを憂い、単身でカラフトへ渡ったことを知り、明治元年の秋に、戦線を離れ、カラフトへ渡り、岡本の右腕として、役人に取り立てられ、作業現場の監督などの仕事に就く。

明治2年(1869年)6月にロシア艦隊がアニワ湾に接近し、公議所にほど近いバッコドマリにロシア人200人を上陸させ、家屋を建設し始める。岡本がいくら抗議しても、作業をやめない。そこで岡本は東京へ行き、事情を訴え、明治新政府は岡本を「樺太担当判官」に命じ、新たに開拓移民300人を連れて、秋にカラフトへ戻るが、ロシア兵側は、やってきたのが農民だけと知って、その横暴は逆に酷くなった。樺太担当の開拓次官に就任した黒田清隆は、カラフトを視察し、ロシアとの紛争を避けるために、樺太の開拓使の廃止を提案した。岡本はこれに抗議し辞職。故郷徳島に帰り、前野も辞職し、札幌で遊女屋を始める。

その後、明治8年(1875年)、樺太千島交換条約が締結され、カラフトはロシア領になり、千島が日本領になる。

岡本は東大講師などを歴任。学徒教育と著述によって愛国の志をのべ、著書60種、中には、新中国誕生の機縁をなしたものもある。この間、台湾に渡って国語を教え、戦後3回、中国に旅してその国情を視察している。

明治24年(1891年)、岡本は53歳になっていたが、北方開拓の夢が捨てきれず、千島開拓を志し、同士を集め、エトロフ島に千島議会を興す。前野は遊女屋を閉め、稼いだ金を千島開拓の費用として岡本を助ける。しかし、前野はエトロフ島の海岸の調査中に自身の銃が暴発し死去。札幌の里塚霊園に墓がある。

岡本は、明治27年(1894年)から3年、旧徳島中学校の校長となり、明治37年(1904年)日露戦争の半ば、東京で病により没す。享年66才であった。

2016年11月5日土曜日

銀河鉄道の夜と輪廻転生

コズミックフロント☆NEXT「銀河鉄道からのメッセージ・宮沢賢治の宇宙論」より

『銀河鉄道の夜』は大正13年(1924年)から10年かけて書かれた。

米地文夫氏(岩手県立大学名誉教授)は、宮沢賢治は当時の最先端の天文知識を元に、『銀河鉄道の夜』を書いたのではないかと語る。『銀河鉄道の夜』の冒頭の「午后の授業」で先生が天の川銀河を説明するときに、立体模型が登場していることに注目している。「先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズを指しました。」とある。

銀河鉄道は白鳥座の停車場から始まる。真夏8月の夕暮れ、天の川は天を縦に流れている。その天のてっぺんで、白鳥が地を見下ろしている。白鳥座の下には鷲座、その下には、さそり座。天の川は地平線の下にも続いていて、南半球では、孔雀座、ケンタウルス座、南十字星へとつながっている。銀河鉄道は北半球の夏の夜空のてっぺんからはじまり、赤道を越えて南半球の夜空のてっぺんまで走っていく。

サソリは、たくさんの虫を襲い食べた。そのサソリがイタチに狙われて、誤って井戸に落ちておぼれた。溺れ死ぬサソリは自分の殺生を悔いて、イタチの命をつなぐためにこの命をくれてやったらよかったと思い。神様に、この次に生まれ変わったら、まことのみんなの幸のために私の体をおつかい下さいといった。サソリは自分の体を真っ赤なうつくしい火になって燃えて夜の闇を照らしている。

ケンタウルスは、ペーリオン山の洞穴に住み、薬草を栽培しながら病人を助けて暮らした人馬神。アポローンから音楽、医学、予言の技を学び。アルテミスから狩猟を学んだという。銀河鉄道に乗っている子どもが「ケンタウル露をふらせ」と叫んだ。ケンタウル祭はクリスマスのモミの木のような木を囲んで、人馬神のケンタウルが踊っている。

岩手県奥州市衣川地区は日本一夜空が美しい町という。

宮沢賢治は、星のことを「三角標」といった。三角標は明治時代以降に地図作製に使われた観測点で、2点の三角標間の距離がわかっている場合。2点から観測したい点までの角度がわかれば、距離が計算できるというもの。

星までの距離は、この三角測量で、測ることができる。地球の公転面の直径は3億キロで、星までの角度を測ればよい。

1838年に白鳥座の61番星までの距離が10光年であることがわかった。また南半球でしか観測できないケンタウルス座のアルファ・ケンタウリが4光年、1915年、すぐ隣のプロキシマ・ケンタウリがさらに地球に近いことがわかった。

国立天文台の郷田直輝教授のジャスミン計画は、1辺が50㎝という小型の人口衛生(ナノジャスミン)を使って、銀河系の中心部の星が密集していてもりあがっているところバルジの形を測量するというもの。

銀河の中心部の形を調べることで、その銀河がどのような生い立ちなのかがわかる。中心部がX状の銀河(ESO5297‐G036)は、一度も衝突していない銀河、ソンブレロ銀河のように、中央が丸くぼんやりした銀河は衝突合体が激しくくりかえされた銀河といえる。

奥州市水沢は「Zの街」というキャンペーンをしている。Zとは、1899年に、緯度観測所の所長木村栄は自転軸がふらついていることを発見した。それを式に表したとき、自転軸のふらつきを表すのがZ項として表現された。

花巻農学校(現在の岩手県立花巻農業高等学校)の教師をしていた宮沢賢治は、たびたび水沢緯度観測所を訪れており、数々の名著の構想を育んたといわれている。童話『風野又三郎』は後に『風の又三郎』となる先駆作品の一つ。その中には、水沢緯度観測所でテニスに興じる木村博士が登場している。旧緯度観測所の本館を保存した奥州宇宙遊学館では、「宮沢賢治と緯度観測所」として、宮沢賢治と、この地方の関わりについて紹介されている。宮沢賢治をモチーフとした「又三郎」がマスコットキャラクターとして使用されている。

南十字星のそばには「石炭袋」とよばれる漆黒の暗闇がある。

ジョパンニの前から、カンパネルラが消える。ジョパンニは元の世界に戻り、カンパネルラが川に落ちて死んだことを知る。

宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』で「石炭袋」といった暗黒星雲は、後の時代に星の死骸から、新しい星が生まれているところであることがわかった。

宮沢賢治の生きた時代には、銀河に穴が開いているというくらいしか考えられていた。宮沢賢治は友人を助けて亡くなったカンパネルラの魂の行き着く先を漆黒の闇である「石炭袋」とした。

宮沢賢治は『農民芸術概論綱要』の中に「まづもろともに輝く宇宙の微塵となりて、無方の空にちらばろう」との言葉を記し、輪廻転生を強く意識していた。科学的な根拠は知る由もなかっただろうが、「石炭袋」は星の死骸が集まり、新しい星が誕生している場所なので、輪廻転生の場所ということができる。

暗黒星雲の研究がようやく始まるのは1950年代。好感度撮影ができるようになり、ようやく雲のようなものが写真に写った。

1970年代になって、宇宙空間にも分子があることがわかっり、暗黒星雲は星が生まれているところであることが分かった。

暗黒星雲では星が生まれている。1989年、45mの電波望遠鏡で調べたところ、上下にゼットを噴出する円盤が発見され、そこで新しい星が生まれていることがわかった。

理化学研究所(埼玉県和光市)坂井南美博士は、円盤状のガスの内部の研究をしている。環状C3H2分子は全体に分布しているのに対し、一酸化硫黄分子は中央にのみ分布していることがわかった。このことから、円盤は内側と外側の2重になっているのではないかという仮説を発表した。

内側の円盤と外側の円盤の境界では、ガスがぶつかり合うことで温度が上昇し、凍ったチリが溶けだし、蒸発し内側の円盤に取り込まれ、惑星の材料となっている。ここではアミノ酸のような複雑な有機物分子も合成されている可能性がある。

南米チリの5000mの高山で、66台のサブリミ波を捕まえることができる電波望遠鏡で、今までの10倍の解像度になる。この天文台の運営がはじまると、生命の基が、星の誕生のときに、すでにできているということを突き止めることができるかもしれない。


画像はアルマ天文台のHPより引用。正式名称はアタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(Atacama Large Millimeter/submillimeter Array) 頭文字をとってアルマ望遠鏡と呼ばれている。アルマは、スペイン語で「魂」や「いとしい人」を意味する。2002年から建設が始まり、2013年3月13日に完成記念式典が行われた。2014年6月に全てのアンテナが到着した。


















2016年11月4日金曜日

田村麻呂と観音様

NHKラジオ第1すっぴん! ユカイ裏歴史より、「坂上田村麻呂は、元祖ほほえみ外交」というのを聴いた。

坂上田村麻呂の先祖は壬申の乱で活躍したり、聖武天皇に寵愛されたりした伝統ある武門の家柄。田村麻呂は実践経験はなく、ただ家柄と人柄で大将軍に選ばれた人であった。1万の軍を指揮するのが将軍で、1万の軍を3つ指揮するのが大将軍なのだが、軍隊とは名ばかりの、農民から集められた、数だけ多いにわか軍隊で、本気で戦えるわけではなかった。実際に田村麻呂の前の将軍は蝦夷のリーダーである阿弖流為(アテルイ)に大敗北をしている。

坂上田村麻呂は、蝦夷討伐のために東北へ行って、陣地も作ったが、剣を鍬に換えて、荒れ地を開墾し、田んぼをつくって、お米を作った。何処が誰の土地といったことが明確でなかった時代に、蝦夷の人たちも、農業に、お米に興味をもってくれて、徐々にお米作りをはじめてくれ、朝廷に納税もしてくれるようになったという。

田村麻呂が亡くなった後、時の天皇、嵯峨天皇の勅命により、田村麻呂には甲冑が着せられ、剣と弓を持たされ、立ったままで、平安京の方を向いた状態で埋葬されたという。そして国家に危急があるとき、その塚の中から大きな雷鳴がしたという。

『田邑麻呂伝記』には「大将軍は身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(36cm)の堂々とした姿である。目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだように光っている。体は重い時は201斤、軽いときには64斤。行動は機に応じて機敏であった。怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」という。また、『田村麻呂薨伝』には「赤ら顔で黄金の髭のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の力量があった」という。

この記述から、坂上田村麻呂は実は黒人だったという伝説ができる。1911年にカナダの人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレンは『The Contribution of the Negro to Human Civilization』のなかで、歴史上人類の文明化に功績のあった黒人を紹介する際に坂上田村麻呂について短く触れている。これがどうも発端で、この後、何回か黒人だったという伝説が語られることになる。

清水寺は坂上田村麻呂が寄進したお寺。

清水寺縁起によると、宝亀9年(778)に奈良の子島寺の、後に延鎮上人となる賢心は「木津川の北流に清泉を求めて行け」という霊夢を見たので、翌朝、霊夢にしたがい清泉をもとめて登っていくと、音羽山麓にある滝にたどり着いた。そして、そのほとりで草庵をむすび、永年練行をしている行叡居士と出会った。行叡居士は賢心に霊木を授け、千手観音像を奉刻し観音霊地を護持するよう遺命を託すや否や、姿を消してしまった。「行叡居士は観音の化身である」と悟った賢心は以後、固く遺命を守り、千手観音を刻んで草庵と観音霊地の山を守っていた。

2年後、宝亀11年(780)、坂上田村麻呂は、妻である三善高子命婦の安産のため、夏の暑い日に鹿を求め、音羽山に上がった。そしてひと筋の水の流れを見つけ、そのあまりの美しさに、水源を求めて歩みを進めるうちに草庵にたどり着き、賢心と出会う。坂上田村麻呂は賢心に鹿狩りに上山した旨を話すと、観音霊地での殺生を戒められ、観世音菩薩の教えを諭された。深く感銘を受けた坂上田村麻呂は、この賢心が説かれた清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を妻に語り聴かせ、共々深く仏法に帰依され。そして後日、自らの邸宅を仏殿に寄進し、十一面千手観世音菩薩を御本尊として安置された。

清水寺縁起によると、「山城国宇治郡七条咋田西里粟栖村の水田、畑、山を与える」とある。

清水寺の南東2㎞にある西野山古墳は1919年に発掘される。8世紀後記~9世紀前期に造られたもの。純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃などが見つかった。これが田村麻呂のお墓ではないかと考えられている。

能の「田村」は清水寺の観音様の御利益を語る。

前半は、神仏習合思想に基づき、清水寺の脇にある、縁結びの神様である地主権現は観音菩薩の化身であるとし、地主権現の御神木の桜を観音の慈悲の表れであると考え、この清水寺の桜を讃える。

後半は、『法華経』の普門品には、「観音を信じる者を害しようとすれば、観音の力によって、却ってその者に害が跳ね返ってくる」という。坂上田村麻呂が観音菩薩を本尊とする清水寺の創建者であることから、田村麻呂の武勇を観音の霊験として讃える。

前半は月夜に月光に照らしだされた満開の桜が天も花に酔うという光景。
後半は、それが一変し、勇ましい戦いの光景となる。

平城天皇の御代。伊勢鈴鹿の悪魔を鎮めよとの宣旨を受けた田村麻呂は伊勢へおもむき。伊勢では恐ろしい鬼神の声に、山々も震動している。田村麻呂は「鬼神ども、昔の逆賊・千方(ちかた)のように滅ぼしてやろう」と言うと、鬼神たちは鉄の火を降らせ、数千の軍勢となって襲いかかる。するとその時、味方の軍旗の上に光り輝く千手観音が現れ、千の手で智慧の矢を放ったので、鬼神は残らず滅んでしまったのだった。観音を念じれば、どんな危害も跳ね返してしまう。観音が起こした奇跡を見せる。

能は薄暗い幽玄の世界、この世でもあの世でもない世界を舞台の上につくりだし、「田村」であれば田村麻呂の霊を少年の姿として呼び出して、観音様の御利益を幻影で見せるというもの。予習なしで見ても、まずなんなのかわからない。現代人である私は、すでにリアルな映像に慣れ過ぎてしまい。暗闇の中に、想像する力がやや足りない。

天を酔わす月光の桜。千手観音が千本の手で放つ千本の矢。明るくリアルなCD動画で見てみたいと思ってしまう。

肉まんの季節


『事物紀原』は、11世紀、中国の北宋の時代のもの。全10巻で、宋の高承の撰という。天文・地理・暦数・草木鳥獣・風俗など55部門に分類。1768の事物の起源を古籍から原文を引用して記してある。

『事物紀原』によると「饅頭」は、諸葛亮孔明が発案したという。『事物紀原』の「饅頭」が後の明代に書かれた『三国志演義』に収録されて有名になる。

西暦225年、孔明が南蛮を平定し、成都へ引きあげる帰り道。途中の瀘水(ろすい)という河が氾濫していて、立ち往生した。土地の人は「この河には、荒神がいて、時に荒れ狂う。これを鎮めるには49個の人間の首を捧げなければならない」という。

孔明は「合戦で多くの人が死んだのだ。もう一人も殺すことはできない。」と考え、料理人を呼んで小麦粉をこねて人の頭の形に作らせ、中に羊や豚の肉をつめて蒸し上げるように命じ、それを河の神に供えて祈った。すると氾濫は鎮まり、蜀軍は無事に河を渡ることができたのだという。

饅頭はもともとは、蛮族の頭を意味する「蛮頭」(ばんとう)と呼ばれたが、後に食用となり、食べ物を意味する「饅」(まん)の字に転じて「饅頭」(まんとう)と呼ぶようになった。これが肉饅頭(肉まん)の起源であり、日本に入って来てから「頭」が「ず」と訓読みされ、「まんず」が転じて「まんじゅう」と呼ばれるようになった。

北宋時代に中に具が入っている饅頭は包子(パオズ )と呼ばれることが多くなり、現在の中国でマントウといえば、中に餡も具も入っていない一種の蒸しパンを指すのが普通となっている。上海などの方言では、具が入っていても、入っていなくても、マントウという。

ベトナムや朝鮮にも「マントウ(饅頭)」という言葉がある。モンゴル語やペルシア語でもマントウから派生した言葉が使われている。


古代中国には、神にささげる生贄の風習があったことが伝えられている。日本文化では血を穢れとして嫌う。生贄の風習がいやで、または生贄になるのを免れて、海を渡って逃げてきた人たちが作った国が日本なのではないかと思う。

日本における饅頭の記録は、1349年(南朝の正平4年、北朝の貞和5年)に禅宗の僧と一緒に中国から渡来した林浄因が日本に伝えた。禅宗のお茶と一緒に食べる菓子として饅頭を用いる事を考えた。本来の仏教では肉食は禁じられていないが、日本では肉食を禁じているので、肉の代わりに小豆を使った餡をいれる饅頭が考案されたと言われている。その後、林浄因は奈良の漢國神社の近くに住居して、塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社が、饅頭神社として、菓祖神として祀られている。

林浄因が伝えたとされる年より100年ほど前の1241年(仁治2年)に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多で、その製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂(現在の博多駅前一丁目)に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた「御饅頭所」という看板が、現在、東京の赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉を使う「薬饅頭」で、博多の方は甘酒を使う「酒饅頭」とされる。

日本には、主食としておかずとして、小麦の粉ものを食べる風習が、あまり根付かなかったので、お菓子として、餡子をいれる「あんまん」が主流となったのではないかと考えられている。