2016年9月6日火曜日

かにめいかづちのみこと


仁徳天皇時代(313~399年)に現在の地より西方の西峰山頂に創建。宣化天皇元(535)年この地に移されたという。延暦12(793)年に大宝天王と朱智天王を同殿に合わせ祀られた。慶17(1612)年に建てられた本殿は、京都府の登録文化財。建物は一間社流造、屋根は桧皮葺で、向拝の木鼻や、蟇股には、桃山様式の華麗な彫刻がある。平成16年11月から1年半を費やして屋根の葺き替えと彩色復元の修復事業が行われた。

祭神は迦爾米雷王命(かにめいかづちのみこと)。配祀として建速須佐之男命・天照國照彦火明命。





境内社は、住吉神社(祭神上筒男命・中筒男命・底筒男命)・大高神社(高皇産霊命)・三神社(経津主命・健御雷命・神日本磐余彦尊)・朝日神社(正勝吾勝勝速日・天忍穂耳命)・大土神社(大山御祖命)・白山神社(大山祇命)・稻生神社(豊宇氣毘売神)・金神社(金山毘売神・金山毘古神)・祈雨神社(天水分神)・鎭火神社(火産霊命)・春日神社(天児屋命)・大神宮祭神(天照大神)・天神社(伊邪那岐命・伊邪那美命)。





朱智神社は、京都の八坂神社の元社であるといわれ、今は絶えてしまった行事であるが、京都の祇園祭のときには、朱智神社の氏子が奉じた榊を朱智神社の山麓の天王区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷」という行事が貞観時代からあり、その榊を受けないと山鉾巡行が始められなかったという。近世においては牛頭天王社とよばれていたようで、迦邇米雷命はスサノオ=牛頭天王と混同されているようである。






『古事記』によると、9代開化天皇の子、10代崇神天皇の弟に日子坐王という人がいる。近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、『新撰姓氏録』によれば古代19氏族の祖となっている。この日子坐王の孫が「迦邇米雷命」である。

開化天皇が丸邇臣之祖、日子国意祁都命之妹、意祁都比売命を娶って生んだ御子が日子坐王。意祁都比売命は開化天皇の3番目の妃である。

『但馬国司文書』では、日子坐王は、出雲国の傘下で「丹波・但馬・二方の三国を賜り、下多遅麻之刀我禾鹿(山東町粟鹿)に宮室を造営し此所に坐す」と記載されている。

6代考安天皇は大倭帯日子国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)、8代孝元天皇は大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)と「日子国」という言葉が名前の中に入っている。「日子国」が日子坐王の治めた国かどうかはわからない。出雲、但馬、丹波などの実際の地域と関係があるかもしれないが、日の子という意味では太陽信仰と関係があるという方がよいかもしれない。

日子坐王は4人の后を娶っている。
①山代之荏名津比売・②春日建国勝戸売之女沙本之大闇見戸売・③近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比売・④母之弟袁祁都比売命である。

④母之弟袁祁都比売命以外の3人の妃の名前には共通点がある。つまり「地名」+「属している氏名」+「本人の名前」という表記になっている。④は母である意祁都比売の妹の「袁祁都比売命」という意味。

①山代之荏名津比売は
「山代」+「荏名津」+「比売」の組み合わせ。

②春日建国勝戸売之女名沙本之大闇見戸売
「春日」+「建国勝戸売」+「沙本」+「大闇見戸売」。

③近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比売は、
「近淡海之御上」+「祝以伊都玖」(これは神職を示す表現)+「天之御影神」(これは仕える神様の名前)+「息長」+「水依比売」

「天之御影神」は天照大神の孫の天津彦根命の子で、鍛冶の神である天目一箇神と同一神とされ、日本第二の忌火の神とされる。「息長氏」の息長は鍛冶に使うフイゴのことかもしれない。

日子坐王は婚姻関係を通じて山代・春日・近淡海の勢力と関係を強化したのだろう。

日子坐王の孫が迦邇米雷命(かにめいかづちのみこと)であり、迦邇米雷命の孫が神功皇后となる息長帯比売命ということになる。

日子坐王の母の和邇氏は古代、代々の天皇に多くの妃を出している一族。

和邇氏の本拠地は大和国添上郡和爾(現在の天理市和爾)。ここには和爾坐赤坂比古神社があり、これが祖神と考えられている。先代旧事本紀(地祇本紀・9世紀前半)に「(素盞鳴尊の)八世孫、阿田賀田須命、和迩君等の祖」とあり、新撰姓氏録(815年)には「大和国神別(地祇)、和仁古、大国主六世孫阿太賀田須命之後也」とある。出雲系で鰐をトーテム集団の象徴とする一族。天武13年11月の朝臣賜姓五十二氏において、大三輪君(旧来の大和地方の支配者大物主命の後裔)に次いで第二番目にこの氏族の本宗家とみられる大春日臣が挙げられている。6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。和邇氏からは春日氏・小野氏・柿本氏・大宅氏・栗田氏などの諸氏が分れ出ている。

和邇氏は天皇家から別れた一族ではなく、もともとは2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団ではないかと考えらえている。

丹波では、弥生時代中期中葉(BC200年頃)になると鉄・玉を製造する遺跡が急増する。中国大陸での戦乱を逃れて渡来してきた人たちが棲み付いたのではないかと考えられる。急速に技術が向上するのである。そして紀元0年~200頃までは、日本の鉄の生産の中心地であった。鉄をもって大和朝廷成立に貢献した一族と考えられる。

迦爾米雷王命。「かにめ」+「いかづち」の「かにめ」とは何であろう。

①蟹の目=扇の要の意味がある。朱智神社のある山は淀川と木津川の両方を見下ろす要の地にある。

②カニの目星説。ふたご座のカストルとボルックルは星を頼りに海を航海する人の守り星であった。冬の夜空で冬の大三角形(おおいぬ座のシリウス+こいぬ座のプロキオン+オリオン座のベテルギウス)の上に見える。和邇氏や息長氏は航海技術に長けた海の民で星の信仰があったのではないだろうか?

③カニ=カネ=カヌチ。和邇氏や息長氏は鍛冶技術集団。カニメとは鍛冶技術に関係があるのではないか?

④カニは神様の使者。金毘羅さんの神様の使者はカニで、金毘羅さんの信者はカニを食べない。また、カニを食べたら、50日は参拝を控えるといえわれている。香川の金毘羅さんの総本家は大物主を祭っている。そして海上交通の守護神である。金毘羅(こんぴら)さんはサンスクリット語のクンピーラの音訳といわれ、クンピーラはガンジス川に棲むサメかワニを意味する言葉という。朱智神社は和邇氏と関係があり、その使者であるならば金毘羅さんといっしょで、カニということもあるのかもしれない。小舟のことを和邇とよぶ地域もあり、香川県の金毘羅さんのある山の麓の瀬戸内海と出会うところ三豊は和邇氏の居住地であったという。

『続日本紀』によると、宝亀2年(771年)三豊郡の丸部臣豊球が私物を以て窮民20人以上を養って爵位を進られる。丸部臣巳二西成の子、丸部臣明麻呂は嘉承元年(848年に)に三野郡の大領となる。丸部氏は和邇氏のことであるといわれている。また、香川県の各地に、豊玉姫がワニの姿になって鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を産んだという伝承が伝えられている。

「いかづち」を名前に持つ神というと京都の上賀茂神社に祭られている賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)がある。「いかづち」を名前に持つ神は意外と少ない。

賀茂別雷命は古事記・日本書紀には登場しない。『山城国風土記』逸文には、賀茂建角身命(下賀茂神社の祭神、神武天皇の東征の際に八咫烏に化けて道案内をした。)の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた。それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。その男の子が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、男の子は屋根を突き抜けて、天に昇っていった。そこで、この子の父が神であることがわかったり、賀茂別雷命という名付けられた。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという。賀茂別雷命は『賀茂之本地』では阿遅志貴高日子根神と同一視されている。

「丹塗り矢伝承」は古事記にも出てくる。勢夜陀多良比売はとても美人で、三輪山の大物主神はその姫に惚れてしまい、立派な丹塗りの矢に化けて、厠で用をたしている姫の元に流れ下って、うまく拾ってもらい、姫の寝室に入ることができ、その夜に枕元に置かれた丹塗りの矢はたくましい立派な美男子になり、大物主神は夜這いに成功し、姫と大物主神の間に生まれた子が 伊須気余理比売で、後に初代神武天皇の皇后となる。

太平洋諸国には伝統的な「夜這い棒」の風習がある。かつて家が茅葺だったころ、男性が、目当ての女性の寝室へ、独特な彫刻を施した木製の夜這い棒を壁の外からつき刺して入れる。女性は、彫刻の形で男性が意中の人かどうかを見極め、否な場合は押し返し、良い場合は引き入れるという。大物主神の丹塗り矢の夜這いの話は、この太平洋諸島の人々の風習に似ているかもしれない。

彦坐王と袁祁都比売命の間の子ども、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は同母弟の伊理泥王の女、丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)を妃として迎え、迦邇米雷王を儲けている。迦邇米雷王を祀る朱智神社の神主の子孫は「朱智氏」を名乗っている。雷と朱智、朱智とは「丹塗り矢伝承」とは関係があるのではないかと想像する。また「丹波」が何度も登場することは、古代において製鉄の先端地域であった丹波との関係が深いことが示されていると考える。

迦邇米雷王は丹波之遠津臣の女、高材比売(たかきひめ)を妃として迎え、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)を儲けた。息長宿禰王は河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后となる。

神功皇后の子どもは応神天皇。武烈天皇が後継者のないまま崩御されて、応神天皇の5代子孫である継体天皇が越前から迎えれた。その継体天皇は507年2月に樟葉宮(くすばのみや)で即位。511年10月に筒城宮(つつきのみや)に遷都している。樟葉宮は大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地で、筒城宮は京都府京田辺市多々羅都谷付近が伝承地となっている。朱智神社のある山の大阪側が樟葉宮、京都側が筒城宮になる。また、迦邇米雷王の父親、山代之大筒木真若王の名前は大筒木の地名に由来し、その地に、後に筒城宮が置かれた。朱智氏は継体天皇の擁立に深くかかわっているのかもしれない。


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