2016年8月7日日曜日

伊豫岡の杜






称名寺からの遠景。伊予灘を背景に田園の中にこんもりとした岡がある。




岡の上には伊豫岡八幡宮がある。

清和天皇の貞観元年(859年)。9歳で即位したばかりの清和天皇は、平安京の守護神として宇佐八幡宮の八幡神を平安京のある山城国の地に迎えようとした。その奉安の途中、伊予灘を航海中、伊豫岡の辺りが明るくなったのが沖から見えた。これは、神のお告げがあるとして、神の分身を祀るため社殿を建てたのが始まり。山城の国に運ばれた宇佐八幡宮の八幡神は元石清水といわれる山崎の離宮八幡宮へ安置され、後に石清水八幡宮となる。

石清水八幡宮の縁起によると南都大安寺の僧行教が「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との八幡神の神託を受けたことを清和天皇に報告し、奉安事業が開始されたという。行教が帰途の淀川の当時の物流拠点である山崎の津で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後に天皇に奏上したとこで、石清水八幡宮ができることになる。元石清水の離宮八幡の離宮とは、この地にもともと嵯峨天皇の河陽(かや)離宮があったことに由来する。

伊豫岡八幡宮の祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后で大洲藩主加藤家の祈願所として敬われていた。拝殿は元禄7年(1694年)・楼門は嘉永2年(1849年)に建てられたもの。


伊豫岡の頂には、古墳が10個。一番大きなものは前方後円墳といわれていて、月陵の名がついている。月の満ち欠けと潮の満ち引きが関係することから、海洋民には月の信仰があるといわれている。海に近い岡の上に、海を見渡す祭祀場。そして八幡神社の由来が、航海を光で照らしたというのだから、この古墳をつくった民は、海とかかわりの深い民であったと想像する。発掘はされたことがないという。一番大きな8号墳は全長20mで高さが3mほど。浸食を受けてなだらかになってしまっているという。


本殿の裏の3号墳は本殿造営のために削られて半分に、石室らしきものが見えている。



9号墳の上の高良社。裏から見た様子。


9号墳の上の高良社を下から見上げる。


本殿の左側奥、4号墳のあるところ。


上之川神社は、明治になって郷社を合社してつくられたものらしい。


上之川神社の裏、7号墳なのだろうか?


上之川神社の右側。


本殿の右側に、えびす様・金毘羅様・多賀神社・松尾神社・和霊神社・鹿島神社の祠。




楼門のある登り口とは反対側の登り口の鳥居さん。


岡の北側には車で近づける道はない。




池の名前は八幡池という。

伊予郷には式内社の名神大の伊豫豆比古を祀る伊予神社がある。イヨヅヒコは『古事記』には登場しない神様だが、『ホツマツタエ』の中では、イヨを治める者として登場する。

『ホツマツタエ』によるとイヨヅヒコはサクナギの子。イサナキのいとこ。ツキヨミの妻であるイヨツ姫の父。 イザナギ・イザナミの二尊の頃のソアサ(四国のこと)またはイヨ の国守。 二尊は筑紫の後にソアサ(四国のこと)を巡り、アワ歌を教えて民の言葉を直してゆく。イヨの国を治めるイヨツヒコは、アワ歌の効果に感動して、自分にアワツヒコという別名を付け、さらにイヨの国にも、アワ(阿波)という別名を付ける。以後、四国のことを「伊予阿波二名島」とも呼ぶようになったという。アワ歌は「いろは歌」のように45音を一文字づつ使った、五七調の歌。アからはじまりワで終わるのでアワ歌という。

ホツマツタエは江戸時代に古事記をベースに書かれた物語で、歴史ではないといわれているが、伊豫岡に月陵と呼ばれる古墳があるとなると、ツクヨミの妻イヨツ姫の父であるイヨツヒコ。そしてツキヨミとイヨツ姫の子どもイフキヌシと、マテラスの子どもタナコの間に生まれた子どもであるイヨツヒコのことが気になってしまう。

古代、伊予の伊豫豆比古が、このあたり一帯を治めていたのだろう。そして伊豫岡の古墳は伊豫豆比古と関係があるのかもしれない。






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