2016年10月22日土曜日
オレンジワールドという未来
2014年10月に発表されたPwCの調査報告「未来の働き方‐2022年までの変遷と展望」によると、世界は大きく3つに分かれていくと考えらえている。
PwCはプライスウォーターハウスクーパースのこと、ロンドンを本拠地とし、世界159カ国に18万人のスタッフを擁する世界最大級の会計事務所であり経営コンサルティング会社。
中国・ドイツ・イギリス・アメリカに住む1万人に未来の働き方と、それが自分に与える影響に対する考えを聞いたアンケート調査の結果。PwCとオックスフォード大学サイード・ビジネス・スクールのジェームス・マーチン科学文明研究所との共同調査で、調査に基づいて、2022年までを展望し、これから未来に起きるさまざまな変化によって形成される仕事世界を3つに分類。
その3つの世界はブルーワールド・グリーンワールド・オレンジワード。
ブルーワールドは企業がお金で支配する世界。
社会的責任よりも資本家の個人的な好みが優先される。
グリーンワールドは企業の配慮が世界をつくる。
利益を上げることと環境に配慮することが同等の価値となる。持続可能性を社会に根付かせることが企業の最大のテーマとなる。
オレンジワールドは企業よりも小規模な組織が世界をつくっていく。
専門分野に細分化し、それらが協働のネットワークをつくって仕事を行い社会に貢献していく。
オレンジワールドというのが面白い。
「未来の働き方‐2022年までの変遷と展望」によると
世界の29%の人間が仕事において最も重要なことは、自分で管理し、何をいつやるかを自分で決められることだと回答している。
世界の5人に2人、31%が、従来の雇用形態はやがて姿を消し、その代わりに労働者がそれぞれのブランドを確立し、自分の能力を必要とする相手にスキルを売るようになる。
オレンジワールドとは
①企業環境の未来
柔軟性に乏しい大企業は、柔軟性、機動力、革新性、活気、企業精神にあふれる中小企業に勝てないことを悟る日がやってくる。
②未来を支える技術革新
インターネットの普及し双方向のコミュニケーションが円滑になった。新しいネットワークやテクノロジーを駆使し、遠く離れていても、同じチームとして、同じ目的のもとに働くことが可能になってきた。
③働き方の変化
目的別にプロジェクトを立ち上げ、プロジェクトの目的の達成のために、それにふさわしい人が集められてチームが組まれる。
④働き方の変化がもたらす労働者の変化
ポートフォリオ方式のキャリアが注目される。ポートフォリオ方式とは、自分の能力を周囲に伝えるための自己作品集のこと。
労働者がそれぞれの自分独自のブランドを確立し、自分の能力を必要とする相手に自らのスキルを売るようになる。
自分自身を特定の企業の従業員ではなく、特定のスキルを持った人材であり、専門職ネットワークを構成する一員と見なす人が増えていく。
さまざまな組織でフリーランサーまたは契約社員として働く方が、より柔軟な就労でき、そして多彩な課題に挑戦でき、やりがいがあると感じるようになる。
自己申告した専門知識が本当であることを、雇い主に証明する必要がある。そのため自分の過去の仕事に対する評価を表す必要がある。このとき、インターネットのSNSなどでを活用し一般のユーザーの生の評価などを集めるこが役立つことになる。
⑤企業の組織の形と人材雇用の仕方
オレンジワールドの企業にとって、効率的なシステムとプロセスの設計が成功を左右することになる。
人材採用が調達業務と同じ意味をもつものなる。チームを構成する人材の能力によって成果が左右される。
企業は個々の人材の実力を正確に把握することが重要となり、労働者はチームやプロジェクトの成功に対する責任を強く求められるようになる。プロジェクトの成功に対するボーナスやプロジェクトの失敗に対する罰金なども、ごく当たり前のこととなる。これらを盛り込むために契約はかなり複雑なものになる。
人事部門はチームを構成する機関との膨大な契約と、チームを構成している人材との能力別に設けられた多数の料金契約の管理も行うことになる。
企業の規模が小さいために人事部の採用担当チームを備えていない企業が多くなり、そうした企業のニーズを満たすために、テクノロジーや専門代理業者の力も借りるようになる。
プロジェクトの達成のために人材募集に入札を導入することもはじまる。
⑥さらに新しいテクノロジーの開発
人材の職務に対する適応性を判断するテクノロジー、人材の位置情報や就労可能性を追跡するテクノロジー。
⑥社会に与える影響
オレンジワールドの先駆的企業は、専門職の組合、協会、労働組合など人材がたくさん登録されているところに対して、人材訓練、開発、イノベーションの供給源となることを求め、そうした組織に新たな使命を与えることになる。
2016年10月15日土曜日
対馬海流がもたらす日本海のめぐみ
蒲生俊敬著『日本海~その深層で起こっていること~』2016年、講談社ブルーバックスより
黒海の出入り口はボスポラス海峡(水深35m)のみ。最大深さは2250m。
日本海の出入り口は間宮海峡(水深10m)、宗谷海峡(水深50m)、津軽海峡(水深130m)、対馬海峡(水深130m)の4つある。最大深さ3796m。
黒海の場合、水深150mよりも深い部分は、有機物の分解のために酸素が消費しつくされて、酸素濃度はゼロ。無酸素の水中では、有機物の分解のために硫化イオンが使われ、副産物として猛毒の硫化水素が発生する。
日本海と黒海の違いは、日本海には塩分濃度の高い対馬海流が絶えず流れ込んでいて、これが冷やされることで、重たくなり、深海まで沈み込み、深海で対流をつくり、沈み込んだ量だけの深層水が、玉突きのように、表層に湧きあがってきている循環が起こっている。このために、日本海は閉鎖海域であるにも関わらず、深層が無酸素になることはない。表層水の沈み込みはウラジオストック沖のピヨートル大帝湾で、深層水の湧きあがりは大和堆のあたりと考えらえている。表層を流れる対馬海流は2ヵ月かけて日本海を北上するが、深層の対流は100~200年かけて循環している。
日本海の深海の対流は、日本海盆、対馬海盆、大和海盆でそれぞれ反時計回りに対流している。
今から2万年前の氷河期には、対馬海峡は陸となってしまい、朝鮮半島と日本列島は陸続きになってしまった。このときは対馬海流が流れ込んでいなかったために、日本海の深層は無酸素状態になり、死の海になってしまっていたことが地層の調査からわかってきている。日本海が豊かな海となったのは対馬海流が流れ込み始めた8000年前から。
アメリカの海洋科学者のウォーリー・ブロッカーは地球規模の表層水と深層水の循環を「ブッロカーのコンベアーベルト」として概念図として示している。大西洋の北の果て、グリーンランドの近海やラブラドル海で、高密度の海水が深層に沈み込み、大西洋を南下し、南極大陸にあたり、東へ流れ、南極低層水となり、インド洋の北と太平洋の真ん中の二ヶ所で、玉突き現象によって湧き上がっている。この循環には1000~2000年くらいかかっている。この海水の循環が、海の深いところにも酸素を運んでいるため、深海にも生きものが生息している。深層海はどこでも、表層水の50%以上の酸素を含んでいて、無酸素のところはない。もし、この循環がなかったら、地球の海の深層は、有機物の分解のために酸素がすべて使われて、黒海のような無酸素状態の死の海になってしまうと考えられている。
座禅をすることには、どのような効果があるのか?
座禅をすることには、どのような効果があるのか?
◆マインドフルネスがブーム
火をつけたのはアップルコンピューターCEOだったスティーブ・ジョブス氏だろうか?スティーブ・ジョブス氏はアップルを創業した直後の1976年に曹洞宗の僧侶である乙川弘文老師禅に「会社を辞めて禅の修行がしたい」と相談したという。それに答えて老師は、彼に「事業をするのも、座禅をするのも同じことだから、事業をしたら」と勧めたという。このとき、禅の修行をしていたら、アップルコンピュータは無かったかもしれない。
座禅や瞑想やヨガなどをベースにした「心のエクササイズ」つまり「心の健康保持のための運動」のことが「マインドフルネス」と呼ばれ、グーグル、インテル、フェイスブック、ナイキなどのアメリカ企業の中で企業内活動のカリキュラムとして定着している。
グーグルで行われている「SIY(Search Inside Yourself)自分の内面の探索」と呼ばれるプログラムの中のエクササイズでは、活動が3つのパートに分けらえている。
パート①は「身体に気づくプラクティス(練習)」。意識を身体に向け、やがて頭の中に考えごとが浮かんできたら、また意識を身体に戻し、さまざまな感覚をありのまま受け止める。
パート②は「呼吸に気づくプラクティス(練習)」。呼吸に意識を向け、パート1と同じようにする。
パート③の「思いやりの心を育むプラクティス(練習)」。その日に楽しい会話をした人を思い浮かべ、相手も「心と身体」を持ち、自分と同じであると自らに語りかける。
マインド(精神)とボディ(身体)を分けるのではなく一体として扱うことが共通している。
このSIYは「心と思考力」を科学的アプローチで強化するプログラムとして、SAP、フォード、LinkedIn、UCバークレービジネススクールなどでも実践されている。心の知能指数(エモーショナルインテリジェンス)における5つの要素(自己認識・自己制御・モチベーション・共感・コミュニケーション)を鍛えることができると考えらえてもいる。日本にもこれを普及する協会が設立されて活動がはじまっている。
◆ぼんやりに潜む脳の活動
NHK、サイエンスZERO(2014年6月22日放送)より
人間の脳は、全体重の2%ほどの重さしかない。
人間が、1日あたり2000キロカロリーを摂取しているとして、脳はそのうちの400キロカロリーを消費している。つまり脳はカロリーの5分の1を使っている。とてもカロリー消費が多い。
しかし、実際に意識的な活動をしているのは、わずか5%で、その他20%ほどが脳細胞の修復と維持のために使われているが、全体の4分の3にあたる部分は、いったい何をしているのか、今まではよくわかっていなかった。
そのよくわかっていない部分の研究が近年、急速に進められている。マーカス・E・レイクル博士(ワシントン大学・セントルイス)は、fMRI(ファンクショナル・エム・アール・アイ)という機器を使って、何らかの課題をしている時に、脳のどの部分の血流が増えるかを調べていた。
脳の血流は一定なので、どこかが増えると、どこかが減ることになる。何かの課題を行い意識が集中すると、後部帯状回と前頭葉内側の活動が低下することがわかり、逆に課題をやっていないとき、つまり意識が集中していないときは、この2つの領域の活動が活発になることがわかった。博士はこの脳が休んでいるときに活動が活発になるこの領域のことを「デフォルト・モード・ネットワーク」と名付けた。
デフォルトとは
後部帯状回と前頭葉内側は、①自己認識(自分自身のことを考える)、②見当識(自分のおかれている状況の把握する)、③記憶(海馬と連携していることがわかっている)
島根県出雲市のヘルスサイエンスセンター島根では、脳梗塞の兆候を調べる脳ドックの健康診断を行っている。
そのときに同時に安静時の脳の血流の状態を調べている。
島根大学医学部では2010年から解析を続けていて、年齢性別バラバラの1000人分のデータを集めて解析した結果、いろいろなことがわかってきた。
解析の方法は、脳を立体的に4000個のグリッドに分けて、同じパターンで働く領域を線で結ぶとう方法で視覚化する。
この解析方法からわかったこととして、50歳以下と70歳以上を比べると、70歳以上では、後部帯状回と前頭葉内側をつなぐデフォルト・モード・ネットワークがなくなってしまっていることがわかった。
遠く離れたところとネットワークを構築することは、それだけで多くのエネルギーがたくさんかかるので、年をとると、コストがかかる遠くとのネットワークをやめてしまうのではないかと考えられている。
また、アルツハイマーの原因と考えらえているアミロイドベータという原因タンパク質が溜まるところとデフォルト・モード・ネットワークの領域が一致していることがわかり。
アルツハイマーの原因は、実は脳の使い過ぎによる疲労であり、アミロイドベータが溜まるのも、使いすぎに起因するのではないかと考えられ始めている。
その証拠に、体の機能は正常だが、物忘れが酷くなったという初期アルツハイマー症状の方の脳を調べると、デフォルト・モード・ネットワークが切れてしまっていることが分かった。
この研究は、精神の病の原因が脳のどのような構造に由来するものかを明らかにしてきつつある。たとえば、
①うつ病は、あるタスク(意識的な活動)をしているとき、通常は減るデフォルト・モード・ネットワークが減らないことが原因。
②統合失調症はネットワークが強くなり過ぎていることが原因。
ということがわかってきた。
現在、数千人規模の研究者でデータベースを作っていて、1日1本の論文が出ているほど研究が盛んにおこなわれている。
◆マインドフルネスがブーム
火をつけたのはアップルコンピューターCEOだったスティーブ・ジョブス氏だろうか?スティーブ・ジョブス氏はアップルを創業した直後の1976年に曹洞宗の僧侶である乙川弘文老師禅に「会社を辞めて禅の修行がしたい」と相談したという。それに答えて老師は、彼に「事業をするのも、座禅をするのも同じことだから、事業をしたら」と勧めたという。このとき、禅の修行をしていたら、アップルコンピュータは無かったかもしれない。
座禅や瞑想やヨガなどをベースにした「心のエクササイズ」つまり「心の健康保持のための運動」のことが「マインドフルネス」と呼ばれ、グーグル、インテル、フェイスブック、ナイキなどのアメリカ企業の中で企業内活動のカリキュラムとして定着している。
グーグルで行われている「SIY(Search Inside Yourself)自分の内面の探索」と呼ばれるプログラムの中のエクササイズでは、活動が3つのパートに分けらえている。
パート①は「身体に気づくプラクティス(練習)」。意識を身体に向け、やがて頭の中に考えごとが浮かんできたら、また意識を身体に戻し、さまざまな感覚をありのまま受け止める。
パート②は「呼吸に気づくプラクティス(練習)」。呼吸に意識を向け、パート1と同じようにする。
パート③の「思いやりの心を育むプラクティス(練習)」。その日に楽しい会話をした人を思い浮かべ、相手も「心と身体」を持ち、自分と同じであると自らに語りかける。
マインド(精神)とボディ(身体)を分けるのではなく一体として扱うことが共通している。
このSIYは「心と思考力」を科学的アプローチで強化するプログラムとして、SAP、フォード、LinkedIn、UCバークレービジネススクールなどでも実践されている。心の知能指数(エモーショナルインテリジェンス)における5つの要素(自己認識・自己制御・モチベーション・共感・コミュニケーション)を鍛えることができると考えらえてもいる。日本にもこれを普及する協会が設立されて活動がはじまっている。
◆ぼんやりに潜む脳の活動
NHK、サイエンスZERO(2014年6月22日放送)より
人間の脳は、全体重の2%ほどの重さしかない。
人間が、1日あたり2000キロカロリーを摂取しているとして、脳はそのうちの400キロカロリーを消費している。つまり脳はカロリーの5分の1を使っている。とてもカロリー消費が多い。
しかし、実際に意識的な活動をしているのは、わずか5%で、その他20%ほどが脳細胞の修復と維持のために使われているが、全体の4分の3にあたる部分は、いったい何をしているのか、今まではよくわかっていなかった。
そのよくわかっていない部分の研究が近年、急速に進められている。マーカス・E・レイクル博士(ワシントン大学・セントルイス)は、fMRI(ファンクショナル・エム・アール・アイ)という機器を使って、何らかの課題をしている時に、脳のどの部分の血流が増えるかを調べていた。
脳の血流は一定なので、どこかが増えると、どこかが減ることになる。何かの課題を行い意識が集中すると、後部帯状回と前頭葉内側の活動が低下することがわかり、逆に課題をやっていないとき、つまり意識が集中していないときは、この2つの領域の活動が活発になることがわかった。博士はこの脳が休んでいるときに活動が活発になるこの領域のことを「デフォルト・モード・ネットワーク」と名付けた。
デフォルトとは
後部帯状回と前頭葉内側は、①自己認識(自分自身のことを考える)、②見当識(自分のおかれている状況の把握する)、③記憶(海馬と連携していることがわかっている)
島根県出雲市のヘルスサイエンスセンター島根では、脳梗塞の兆候を調べる脳ドックの健康診断を行っている。
そのときに同時に安静時の脳の血流の状態を調べている。
島根大学医学部では2010年から解析を続けていて、年齢性別バラバラの1000人分のデータを集めて解析した結果、いろいろなことがわかってきた。
解析の方法は、脳を立体的に4000個のグリッドに分けて、同じパターンで働く領域を線で結ぶとう方法で視覚化する。
この解析方法からわかったこととして、50歳以下と70歳以上を比べると、70歳以上では、後部帯状回と前頭葉内側をつなぐデフォルト・モード・ネットワークがなくなってしまっていることがわかった。
遠く離れたところとネットワークを構築することは、それだけで多くのエネルギーがたくさんかかるので、年をとると、コストがかかる遠くとのネットワークをやめてしまうのではないかと考えられている。
また、アルツハイマーの原因と考えらえているアミロイドベータという原因タンパク質が溜まるところとデフォルト・モード・ネットワークの領域が一致していることがわかり。
アルツハイマーの原因は、実は脳の使い過ぎによる疲労であり、アミロイドベータが溜まるのも、使いすぎに起因するのではないかと考えられ始めている。
その証拠に、体の機能は正常だが、物忘れが酷くなったという初期アルツハイマー症状の方の脳を調べると、デフォルト・モード・ネットワークが切れてしまっていることが分かった。
この研究は、精神の病の原因が脳のどのような構造に由来するものかを明らかにしてきつつある。たとえば、
①うつ病は、あるタスク(意識的な活動)をしているとき、通常は減るデフォルト・モード・ネットワークが減らないことが原因。
②統合失調症はネットワークが強くなり過ぎていることが原因。
ということがわかってきた。
現在、数千人規模の研究者でデータベースを作っていて、1日1本の論文が出ているほど研究が盛んにおこなわれている。
2016年10月5日水曜日
「いぶき」と「めぶき」と「出会い」の人間形成。
「いぶき」と「めぶき」と「出会い」の人間形成。
●東洋と西洋の風土による人間形成の違い
なぜ古着(ビンテージもの)に価値があるのか?それは価値とはその物体に降り積もった時間の量で決まるからである。ゆえに古いものには、たくさんの時間が降り積もっているので価値があり、新しいものには、時間が積もってないために価値が薄い。ドイツ人は古着を重んじるという。
マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』を読んだ和辻哲郎は、人間を育てかたちづくるものは、時間ではなく空間であると考え、『風土』を書いた。倫理学者である和辻哲郎の倫理学を一言でいうと人間存在を決めるのは「間柄」であるというものである。他者との関係性が人間の存在の意味を決める。たとえば、家庭では2児の夫、会社では課長さん、○○さんの後輩で、○○さんの先輩、地域社会では○○な人、趣味の世界では○○な人、そして駅前の大衆食堂に水曜日のお昼に、必ずひとりでランチにやってくる人と、ライフステージによって、または、対応する人によって人間存在の意味は変わる。決して不変なものではなく。変わり続けている。
◆和辻哲郎の『風土』は世界を自然環境の違いによって大きく3つに分ける。
第一は、東南アジア・中国・日本はモンスーン地帯。気候の特徴は、暑熱と湿気の結合である。これは人間にとって耐え難い苦痛であるが、同時に植物を繁茂させる好条件でもある。自然の猛威に耐えながらも、自然の恩恵に浴することも事実であり、ここに忍従的・受容的人間像が形成された。
第二は、アラビア・アフリカ・蒙古などの沙漠。気候の特徴は乾燥であり、自然に生気はなく荒々しい。この地域からは一神教が生まれる。その背景として、不毛地帯を生き延びなければならないこと。乏しい自然の恵みを求めて、部族間の激しい戦闘が繰り返され、ゆえに、絶対服従による部族内の結束が不可欠になった。唯一神への信仰が社会の結束を強めた。
第三はヨーロッパの放牧地帯。気候は夏の乾燥と、冬の湿潤。雑草を駆逐し、全土を牧場化できた。モンスーン地帯の自然に対する忍従も、沙漠地帯の自然に対する恐怖も必要なく、自然は人間に対して従順であり、合理的に対応する。こうした風土の中でヨーロッパの合理的精神・自由の概念・自然科学などが発達した。
日本は多神教の文化。一神教の文化とは、人を育てる教育の根本的な部分、発想の原点や基盤が異なるといえる。
キリスト文化圏の人間の成長のモデルの考え方の代表はアブハム・マズローの欲求の5段階説(欲求のピラミッド)だろう。人間の欲求を5段階に分けてまとめたもの。低次元の欲求が満たされたら、次第に高次元の欲求に移行していく。
①生理的欲求(生きていくためにの基本的な欲求、食欲、睡眠欲など)
②安全欲求(危険を回避して、安全安心な暮らしがしたいという欲求)
③社会的欲求・帰属欲求(仲間がほしくなる欲求)
④尊厳欲求(他者から認められたい・外的なモノではなく、内的な心を充たしたいという欲求)
⑤自己実現欲求(自分の能力を引き出し創造的活動がしたいという欲求)
日本でも「自己実現=人生の幸福」とよく言われるようになってきたが、マズローのいう、この5段ピラミットの頂点の自己実現欲求の中身は、キリスト教文化の中のものなので「人間は誰しも、神からこの世に使わされた使命がある。その使命にいち早く気が付いて、その使命を全うすることが人間にとっての一番の幸福である」というもの。よって欲求は欲望と明確に区別される。
キリスト教やイスラム教には『聖書』があり、それが民族文化をかたちづくる基盤となっている。そして人間形成にも重要な役割を果たしている。しかし、日本にはキリスト教やイスラム教の『聖書』のような教典=教科書がない。『古事記』のような神話はあるが、そこには「生き方」がはっきりとは示されているわけではない。和辻哲郎は、人間を決めているのは「関係」であるとした。日本では、人は自分を取り巻く環境、森羅万象のあらゆるもの、自分と関係をもったすべてのものが先生であり、そこから「生き方」を学んだり、感じとったりしているのである。
だから日本では「出会い」が非常に重要なものとなる。「出会い」が人を育てるのだから、どんな「出会い」を体験したかが、その人の人間形成・人間存在の意味にとって、とても大事になるのである。
●心という土壌に播かれたタネ
「種子」を仏教では「しゅし」とは読まずに、あえて「しゅうじ」と読ませる。この特別な種子は心という土壌に播かれたタネのことである。タネは、そのうちに秘められた生命が生きていくための適した条件がきちんと整う、その日まで、ひたすらじっと息をころして耐えている。しかし、ただ、じっと耐えているだけではない、いつか「めぶく」その時を見逃さないように、全身で、しっかりと、身の回りの、自分を取り巻く世界の「いぶき」を感じているのである。そして条件が整えば、その一瞬を逃すことなくつかまえて、「めぶく」のである。ひとたび発芽したなら、もう振り返ることもせず、休むこともせず、そのうちに秘められた生命を謳歌し、命が尽きる、その日まで全力で生きるのである。とてもきれいな花を咲かすかもしれないし、とてもおいしい実をつけるかもしれない。仲間と競うように、歌うように、伸びに伸びて大きな森をつくるかもしれない。
出会いによって人は心の土壌にタネをもらう。
しかし、そのタネがきちんと発芽して立派に育つかどうかはわからない。
東洋の人間形成のモデルの例として『人生五計』を取り上げたい。中国の南宋の時代の末期に、朱新仲(1097~1167年)は、宰相であった秦檜に従わなかったために辺境の地へ流され、その田舎暮らしの中で『人生五計』を表した。その内容は、各年齢別に何を学び、どう生きるかが書かれている。10歳代のころは、父母の養いで成り立っているから、父母の教えに背かない(生計)。20歳代は身を慎んで、学問、芸、家学を学び、身を立てる計画をすべし(身計)。30~40歳は家庭を営み、保つ計画をすべし(家計)。50歳では、世事に慣れていない子孫のために父親として計画をすべし(老計)。60歳になったら死後のことを計画すべし(死計)。
わたしたちは子どもから成長し青年となり壮年となり熟年となり老いていく。その人生の各ステージで、そこで出会う人から、その人と織りなす体験の中から、生活や仕事のさまざまな出来事の中から、多種多様な生きるためのタネをもらっている。
10歳代、生計の時代。わたしたちの心にはまず、親によって、祖父母によって、兄弟によって、生きるための基本的な力となるタネが播かれる。血縁と地縁の中のさまざまな体験の中で「ふるさと」というべき基盤が作られる。学校に通うようになると、学校でできた親友、恩師、ライバルなどからも、さまざまなタネをもらう。
子どもの頃の自然とのふれあいは、人間形成にとって、非常に重要なタネを与えるものではないかと思う。わたしたちの多くには幼い頃の記憶がほとんどないのが普通である。幼児性健亡とよばれ3歳以前の記憶は残りにくいことが知られている。ところが、昔から諺に「三つ子の魂、百まで」と言われてきた。誰も3歳までの記憶は持っていないが、それは人生の土台であり、心の無意識の世界に根を張る重要な時期と昔から考えられてきた。現代になって脳の発達の研究が進み、3歳までの環境が、人間形成によって非常に重要であることがわかってきたが、科学が発達して明らかにする以前から、経験的に「三つ子の魂、百まで」と、3歳までの出会いを重要視してきた。
自然とのふれあいが減ったこと。核家族化で、人間関係が希薄になったこと。都会では住空間が狭く、のびのびできないことなど。現代社会は人間形成にとって最も重要な、幼いときの出会いを奪い、そのタネ播き時期の環境を極端に悪化させている。
子育てや教育は、田舎で自然の中で、のびのびとゆったりと行うのがよいだろう。このことはやがて科学的にも、徐々に証明されていくことになると確信している。
20歳代、身計の時代。現代社会は何らかの技能を身に着けていないと生きにくい時代である。
ブルース・パスカルは『パンセ』の中で、「一生のうちで、いちばん大事なのは、どんな職業を選ぶか?これに尽きる。ところが、これは偶然によって左右される。習慣が石工を、兵士を、屋根葺き職人をつくるのだ。」「人は屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつきあらゆる職業に向いている。向いていないのは、部屋の中にじっとしていることだけだ。」「われわれの本性は運動のうちにある。完全な静止は死である。」すべての人は生まれながらに、すべての職業につく才能をもっているが、最終的に屋根職人を屋根職人たらしめているものは、偶然であるというが、それは「出会いの偶然」といえるだろう。そして、職業を決めるのはその人の習慣であるという。「習慣というのも出会い」といえるだろう。
「職業を選び、働き出す」ことは人生において非常に重要な場面である。それは、それまでにさまざまな「出会い」によって、心という土壌に播かれたタネが、何らかの「いぶき」を感じて「めばえ」たときといえるかもしれない。
天才数学者であったパスカルが、数学とはほとんど関係がない『パンセ』を書き残した理由。それは同時代を生きたライバルであるルネ・デカルトの思想への挑戦であったと考えられる。パスカルは『パンセ』の中でもデカルトを批判している。
デカルトは「人間の理性は万能であり、世界は精密な機械のようなもので、すべてには原因と結果があり、何事も因果関係で説明でき、予測もできる」と考えた。
それに対してパスカルは「人間の理性には限界があり、世界は偶然性によって左右され成り立っている」とした。だから予測もできない世界だからこそ、こそで人間は考え続けることで強くなれると考えた。「人間はすぐ折れる葦のように弱いが、考える葦だから強く生きられる」とした。人間の最終目的が幸福であるならば、人間はどのようにしたら幸福になれる。答えは一つではない。誰かの真似をしてもうまくいくとは限らない。できることは考え続けることだけ。幸福になるかどうかは偶然によって左右され、幸福になるための完璧な方程式もないし、答えもない。
現代の科学では、人間の細胞は新陳代謝し、100日くらいで入れ替わってしまう。つまり不変ではなく。変わっていくことの方が普通と考えらえている。そのように変わっていく肉体に対して、精神は不変であるとした。デカルトは「自分は絶対的に自分である」と考えた。肉体は変われども、精神は不変である。脳神経細胞は新陳代謝をしないので、現代の科学でも、脳神経細胞を自分だとするなら、「自分は、絶対的に自分だ」といえるのかもしれない?
パスカルは、人間形成は偶然の産物であると考える。良い出会いがあれば、それがよいタネとなって、よい「いぶき」があって、よい「めぶき」が生じる。しかし、逆もあるだろう。悪い「出会い」、悪いタネ、悪い「いぶき」、そして悪い「めぶき」というのもあるだろう。
30歳代、家計の時代、結婚し家庭を築き、子どもができると、子どもを介して、人づきあいが増えて、また多種多様なタネが播かれる。
デザインやアイデアというものは、ひとり自分の頭の中だけで完結して出てきたものだろうか?そうではないだろう。人間はこの世に一人きりでは、人間になることもできないとさえいわれている。その人の経験や体験が、新しいデザインやアイデアを生み出したものなのだが、たとえ、それが一人きりのときに生み出されたものだとしても、それが生み出されるに至るには、たくさんの人との関わりの中でいただいた発想のタネが関わっていることだろう。
バージンレコードの創業者リチャード・ブランソンの伝記には、Ⅰはひとつもない。ぜんぶWeなのだという。つまり私という一人称はまったくなく、わたしたちはと、常に自分は物を形のする仲間たちと共に事業に臨んだということが書かれている。
デザインはデ+サインで「上から、天から降りてくる形」が語源。アイデアもイデアが語源となっている。イデアは私たちの体の外にある。私を形成するものは、肉体も精神も、すべて、私の外から私の中へ持ち込まれたものであるといえる。
プラトンによるとイデアとは「我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。」とある。
「出会い」によって心の土壌に播かれたタネは、プラトンのいうイデアに似ている。心の土壌に埋没してしまたタネのことを、わたしたちはすっかり忘れてしあっているが、それはなんらかの「いぶき」を感じて、ひらめきやアイデアとして芽を出すことがある。
●一期一会の「出会い」を重視する文化
わたしたちの記憶の仕組みは脆弱で、わたしたちは毎日、かなりの量の記憶を忘れていってしまっている。日々の体験の多く、食べたもののこと、見たもののこと、出会った人のことを、強烈な印象でもない限り、どんどん忘れてしまっていくことのほうが普通であり、正常であるともいえる。その忘れてしまったものは、みんな無駄なものなのだろうか?
覚えていないなのだから、思い出せないのだから、役に立てようもない。わたしたちは役に立たないものに対して、無駄と言ってしまう。
あらためて無駄とはなんだろう?辞書によると無駄とは①役に立たないこと。②やったかいがないこと。報われないこと。③無益なこと。とある。現代に生きるわたしたちは、生産性や効率や利益を重視し、体験でも記憶に焼きつくような強烈な刺激を求めがちである。無駄にしたくないという気持ちが多く、少しでも利益を上げたいと考えがちである。
しかし、一期一会の精神は、この世に無駄な体験、無駄な出会い、無駄な時間というものは、これっぽちもないという考えであり。すべての体験はわたしの心という土壌に、なんらかのタネとなって埋没してしまっているだけで、わたしはそのことをすっかりわすれてしまっているのだが、何かの拍子に、タネは「いぶき」を感じて、そのタネは「めぶく」のである。
日本の文化はさまざまな「出会い」によって、心に播かれたタネのことを大事にする文化である。日本の花鳥風月をめでる風習や伝統文化は、季節の変化によって、新たに訪れた新しい季節との一期一会の「出会い」を楽しむものであると考えられる。
また、俳句や和歌といった文化は、いつか「めぶく」かもしれないタネ。そのタネを播いた時の記録を文字として留めておこうとしたものといえるかもしれない。
たくさんのタネによい「めぶき」が与えられるように、自分を取り巻く「いぶき」をしっかり感じていかなければならない。そういう意味ではパスカルが『パンセ』で表したように「人間は考える葦」なのだろう。一方で、日々、膨大な量を忘れていきながら、他方で何かを考え続けて生きている。それは心に播かれたタネに良い「めぶき」を促すようなことともいえる。
禅僧は日常の茶飯事を非常に大事にしている。道元は宋から日本に帰ってき来て、禅宗を広める拠点として京都の宇治に興聖寺を建立し、その座禅堂や講堂や伽藍の建設と同時に『典座教訓』を表す。典座(てんぞ)とは修行僧の食事をつくる役職のことで、この中で道元が宋で体験したエピソードが書かれている。
宋に渡った道元は、上陸許可が下りないので、しばらくの間、船に足止めされていた。その時、日本からの船がやってきたと聞きつけて、ダシに使う良質の干しシイタケを求めて、5里も離れたところのお寺から老典座がやって来た。道元は「そんな食事の用意などは新入りの若い者にでもさせればいいではないですか。あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の議論よりも、そんな食事の準備などを優先させて、何かいいことがあるのですか。」と言うと、老僧は大笑いして、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない。文字は知っていても、意味を知らない。」と言い残して帰ってしまた。道元はショックを受けた。また、留学中の天童寺で。暑い日の昼間、腰の曲がった老典座が、杖をつきながら汗だくになって本堂の脇で海藻を干していた。みかねた道元が、「こんな暑い日ですから、誰か若い人にでもさせるか、せめてもう少し涼しい日にしたら良いのでは」と声を掛けると、「他の者にさせたのでは自分の修行にならん、今せずに、いつするというのだ」と返され、再び大きなショックを受けた。
若い僧にやらせると不平不満を言いながらやるかもしれない。それでは修行にならない。老僧が先頭を切って、実践して見せるということが、とても大事だったのかもしれない。経験豊かな老僧だからこそ、日々のすぐにでも、忘れていってしまうような、日常のありふれたことに、真剣に向かい合うことの大切さを知っていたともいえる。生きるために必要な食べるということ。日常生活ではあたり前の食べるということを大切な修行と考えるのは、食べたものが自分の身体となり、自身の活動のエネルギーになるからだろう、食べるということは、生きていくことの根本と同じくらい大事である。だからおそろかに、いい加減にしてはいけない。そこには生きることを真剣に考える哲学がある。
現在の道場の典座職には、修行経験が深く篤実温厚な人物が任命される場合が多く、修行僧たちの相談役として敬慕される者が多いという。それは食べることが生きることと直結しているからであり、食べることをおろそかにしては、生きることもおろそかになるからであろう。生きることそのものが修行であるということを強く意識しているからでもあるのだろう。
座禅をするとわかることだが、人間は考えることを一瞬たりとも、止めることができない。考えないようにしようとすればするほど、どんどんいろんな感情があふれてくる。禅では、それら込み上げてくるさまざまな感情に対して、良いとか悪いとかの判断を下さないようにという。それは「無分別智」といわれ、対象を分析する(分別する)ことなく、ありのまま、そのままでとらえることが重要とされる。
座禅で大切なことは、その身体的な行為そのものであると考えられる。つまり、体の動きを止めて、心と体を一体のものとし、さらに、五感の感度を下げて、感じてはいるが、感じられないほどの「うすらぼんやり」な状態とし、自分を取り巻く環境や風土と自分を一体のものとしていく。すべての境界を取り払い世界と自分とが一体となるようにしていく。
「心身一如」や「身土不二」という言葉で表される。
座禅とは、「出会い」によって心に播かれたタネに、「いぶき」を注ぎ込み、「めぶき」を促す行為ということもできるのではないかと考える。
ありのままに感じ取るのは、「It seems to me~(私には~に感じる)」という一人称で受け止める主観的世界。
これに対して論理分析的思考は「It is~(それは~である)」と三人称ですべてを客観的に外からとらえる。
西洋では、心と体を分けて考える心身二元論が発達し、知行分離のスタイルが発展した。つまり脳が体を支配する考え方であり、計画が実行を支配する方法である。
いままで、主観は自分勝手で、いいかげんなものであり。科学的・論理的に分析された客観には勝てなかった。ところがよく考えてみると、客観視しているのも人間であり、ただの主観の集まりかもしれない。
多くの出会いによってたくさんのタネを心の土壌に播いてもらった人の主観は、さらに考え抜かれた主観というものは、客観にも勝るのではないだろうか?
タネは希望を象徴することがある。タネに「めぶき」をもたらす「いぶき」の正体は「願い」であると考える。人は自分の欲望を満たすためには、かなり頑張ってしまうものではあるが、欲望にもいろいろあって、自分を超えて、社会や世界をもっと良いものに変えてやろうと思うのも欲望である。仏教ではこれを大きな欲望であるから「大欲」とし、自分の中で完結するような個人的な欲望を「小欲」として区別する。
タネに「めぶき」をもたらす「いぶき」の正体は「願い」であると考える。
わたしたちの「願い」がいつも美しいものであることを願う。
●東洋と西洋の風土による人間形成の違い
なぜ古着(ビンテージもの)に価値があるのか?それは価値とはその物体に降り積もった時間の量で決まるからである。ゆえに古いものには、たくさんの時間が降り積もっているので価値があり、新しいものには、時間が積もってないために価値が薄い。ドイツ人は古着を重んじるという。
マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』を読んだ和辻哲郎は、人間を育てかたちづくるものは、時間ではなく空間であると考え、『風土』を書いた。倫理学者である和辻哲郎の倫理学を一言でいうと人間存在を決めるのは「間柄」であるというものである。他者との関係性が人間の存在の意味を決める。たとえば、家庭では2児の夫、会社では課長さん、○○さんの後輩で、○○さんの先輩、地域社会では○○な人、趣味の世界では○○な人、そして駅前の大衆食堂に水曜日のお昼に、必ずひとりでランチにやってくる人と、ライフステージによって、または、対応する人によって人間存在の意味は変わる。決して不変なものではなく。変わり続けている。
◆和辻哲郎の『風土』は世界を自然環境の違いによって大きく3つに分ける。
第一は、東南アジア・中国・日本はモンスーン地帯。気候の特徴は、暑熱と湿気の結合である。これは人間にとって耐え難い苦痛であるが、同時に植物を繁茂させる好条件でもある。自然の猛威に耐えながらも、自然の恩恵に浴することも事実であり、ここに忍従的・受容的人間像が形成された。
第二は、アラビア・アフリカ・蒙古などの沙漠。気候の特徴は乾燥であり、自然に生気はなく荒々しい。この地域からは一神教が生まれる。その背景として、不毛地帯を生き延びなければならないこと。乏しい自然の恵みを求めて、部族間の激しい戦闘が繰り返され、ゆえに、絶対服従による部族内の結束が不可欠になった。唯一神への信仰が社会の結束を強めた。
第三はヨーロッパの放牧地帯。気候は夏の乾燥と、冬の湿潤。雑草を駆逐し、全土を牧場化できた。モンスーン地帯の自然に対する忍従も、沙漠地帯の自然に対する恐怖も必要なく、自然は人間に対して従順であり、合理的に対応する。こうした風土の中でヨーロッパの合理的精神・自由の概念・自然科学などが発達した。
日本は多神教の文化。一神教の文化とは、人を育てる教育の根本的な部分、発想の原点や基盤が異なるといえる。
キリスト文化圏の人間の成長のモデルの考え方の代表はアブハム・マズローの欲求の5段階説(欲求のピラミッド)だろう。人間の欲求を5段階に分けてまとめたもの。低次元の欲求が満たされたら、次第に高次元の欲求に移行していく。
①生理的欲求(生きていくためにの基本的な欲求、食欲、睡眠欲など)
②安全欲求(危険を回避して、安全安心な暮らしがしたいという欲求)
③社会的欲求・帰属欲求(仲間がほしくなる欲求)
④尊厳欲求(他者から認められたい・外的なモノではなく、内的な心を充たしたいという欲求)
⑤自己実現欲求(自分の能力を引き出し創造的活動がしたいという欲求)
日本でも「自己実現=人生の幸福」とよく言われるようになってきたが、マズローのいう、この5段ピラミットの頂点の自己実現欲求の中身は、キリスト教文化の中のものなので「人間は誰しも、神からこの世に使わされた使命がある。その使命にいち早く気が付いて、その使命を全うすることが人間にとっての一番の幸福である」というもの。よって欲求は欲望と明確に区別される。
キリスト教やイスラム教には『聖書』があり、それが民族文化をかたちづくる基盤となっている。そして人間形成にも重要な役割を果たしている。しかし、日本にはキリスト教やイスラム教の『聖書』のような教典=教科書がない。『古事記』のような神話はあるが、そこには「生き方」がはっきりとは示されているわけではない。和辻哲郎は、人間を決めているのは「関係」であるとした。日本では、人は自分を取り巻く環境、森羅万象のあらゆるもの、自分と関係をもったすべてのものが先生であり、そこから「生き方」を学んだり、感じとったりしているのである。
だから日本では「出会い」が非常に重要なものとなる。「出会い」が人を育てるのだから、どんな「出会い」を体験したかが、その人の人間形成・人間存在の意味にとって、とても大事になるのである。
●心という土壌に播かれたタネ
「種子」を仏教では「しゅし」とは読まずに、あえて「しゅうじ」と読ませる。この特別な種子は心という土壌に播かれたタネのことである。タネは、そのうちに秘められた生命が生きていくための適した条件がきちんと整う、その日まで、ひたすらじっと息をころして耐えている。しかし、ただ、じっと耐えているだけではない、いつか「めぶく」その時を見逃さないように、全身で、しっかりと、身の回りの、自分を取り巻く世界の「いぶき」を感じているのである。そして条件が整えば、その一瞬を逃すことなくつかまえて、「めぶく」のである。ひとたび発芽したなら、もう振り返ることもせず、休むこともせず、そのうちに秘められた生命を謳歌し、命が尽きる、その日まで全力で生きるのである。とてもきれいな花を咲かすかもしれないし、とてもおいしい実をつけるかもしれない。仲間と競うように、歌うように、伸びに伸びて大きな森をつくるかもしれない。
出会いによって人は心の土壌にタネをもらう。
しかし、そのタネがきちんと発芽して立派に育つかどうかはわからない。
東洋の人間形成のモデルの例として『人生五計』を取り上げたい。中国の南宋の時代の末期に、朱新仲(1097~1167年)は、宰相であった秦檜に従わなかったために辺境の地へ流され、その田舎暮らしの中で『人生五計』を表した。その内容は、各年齢別に何を学び、どう生きるかが書かれている。10歳代のころは、父母の養いで成り立っているから、父母の教えに背かない(生計)。20歳代は身を慎んで、学問、芸、家学を学び、身を立てる計画をすべし(身計)。30~40歳は家庭を営み、保つ計画をすべし(家計)。50歳では、世事に慣れていない子孫のために父親として計画をすべし(老計)。60歳になったら死後のことを計画すべし(死計)。
わたしたちは子どもから成長し青年となり壮年となり熟年となり老いていく。その人生の各ステージで、そこで出会う人から、その人と織りなす体験の中から、生活や仕事のさまざまな出来事の中から、多種多様な生きるためのタネをもらっている。
10歳代、生計の時代。わたしたちの心にはまず、親によって、祖父母によって、兄弟によって、生きるための基本的な力となるタネが播かれる。血縁と地縁の中のさまざまな体験の中で「ふるさと」というべき基盤が作られる。学校に通うようになると、学校でできた親友、恩師、ライバルなどからも、さまざまなタネをもらう。
子どもの頃の自然とのふれあいは、人間形成にとって、非常に重要なタネを与えるものではないかと思う。わたしたちの多くには幼い頃の記憶がほとんどないのが普通である。幼児性健亡とよばれ3歳以前の記憶は残りにくいことが知られている。ところが、昔から諺に「三つ子の魂、百まで」と言われてきた。誰も3歳までの記憶は持っていないが、それは人生の土台であり、心の無意識の世界に根を張る重要な時期と昔から考えられてきた。現代になって脳の発達の研究が進み、3歳までの環境が、人間形成によって非常に重要であることがわかってきたが、科学が発達して明らかにする以前から、経験的に「三つ子の魂、百まで」と、3歳までの出会いを重要視してきた。
自然とのふれあいが減ったこと。核家族化で、人間関係が希薄になったこと。都会では住空間が狭く、のびのびできないことなど。現代社会は人間形成にとって最も重要な、幼いときの出会いを奪い、そのタネ播き時期の環境を極端に悪化させている。
子育てや教育は、田舎で自然の中で、のびのびとゆったりと行うのがよいだろう。このことはやがて科学的にも、徐々に証明されていくことになると確信している。
20歳代、身計の時代。現代社会は何らかの技能を身に着けていないと生きにくい時代である。
ブルース・パスカルは『パンセ』の中で、「一生のうちで、いちばん大事なのは、どんな職業を選ぶか?これに尽きる。ところが、これは偶然によって左右される。習慣が石工を、兵士を、屋根葺き職人をつくるのだ。」「人は屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつきあらゆる職業に向いている。向いていないのは、部屋の中にじっとしていることだけだ。」「われわれの本性は運動のうちにある。完全な静止は死である。」すべての人は生まれながらに、すべての職業につく才能をもっているが、最終的に屋根職人を屋根職人たらしめているものは、偶然であるというが、それは「出会いの偶然」といえるだろう。そして、職業を決めるのはその人の習慣であるという。「習慣というのも出会い」といえるだろう。
「職業を選び、働き出す」ことは人生において非常に重要な場面である。それは、それまでにさまざまな「出会い」によって、心という土壌に播かれたタネが、何らかの「いぶき」を感じて「めばえ」たときといえるかもしれない。
天才数学者であったパスカルが、数学とはほとんど関係がない『パンセ』を書き残した理由。それは同時代を生きたライバルであるルネ・デカルトの思想への挑戦であったと考えられる。パスカルは『パンセ』の中でもデカルトを批判している。
デカルトは「人間の理性は万能であり、世界は精密な機械のようなもので、すべてには原因と結果があり、何事も因果関係で説明でき、予測もできる」と考えた。
それに対してパスカルは「人間の理性には限界があり、世界は偶然性によって左右され成り立っている」とした。だから予測もできない世界だからこそ、こそで人間は考え続けることで強くなれると考えた。「人間はすぐ折れる葦のように弱いが、考える葦だから強く生きられる」とした。人間の最終目的が幸福であるならば、人間はどのようにしたら幸福になれる。答えは一つではない。誰かの真似をしてもうまくいくとは限らない。できることは考え続けることだけ。幸福になるかどうかは偶然によって左右され、幸福になるための完璧な方程式もないし、答えもない。
現代の科学では、人間の細胞は新陳代謝し、100日くらいで入れ替わってしまう。つまり不変ではなく。変わっていくことの方が普通と考えらえている。そのように変わっていく肉体に対して、精神は不変であるとした。デカルトは「自分は絶対的に自分である」と考えた。肉体は変われども、精神は不変である。脳神経細胞は新陳代謝をしないので、現代の科学でも、脳神経細胞を自分だとするなら、「自分は、絶対的に自分だ」といえるのかもしれない?
パスカルは、人間形成は偶然の産物であると考える。良い出会いがあれば、それがよいタネとなって、よい「いぶき」があって、よい「めぶき」が生じる。しかし、逆もあるだろう。悪い「出会い」、悪いタネ、悪い「いぶき」、そして悪い「めぶき」というのもあるだろう。
30歳代、家計の時代、結婚し家庭を築き、子どもができると、子どもを介して、人づきあいが増えて、また多種多様なタネが播かれる。
デザインやアイデアというものは、ひとり自分の頭の中だけで完結して出てきたものだろうか?そうではないだろう。人間はこの世に一人きりでは、人間になることもできないとさえいわれている。その人の経験や体験が、新しいデザインやアイデアを生み出したものなのだが、たとえ、それが一人きりのときに生み出されたものだとしても、それが生み出されるに至るには、たくさんの人との関わりの中でいただいた発想のタネが関わっていることだろう。
バージンレコードの創業者リチャード・ブランソンの伝記には、Ⅰはひとつもない。ぜんぶWeなのだという。つまり私という一人称はまったくなく、わたしたちはと、常に自分は物を形のする仲間たちと共に事業に臨んだということが書かれている。
デザインはデ+サインで「上から、天から降りてくる形」が語源。アイデアもイデアが語源となっている。イデアは私たちの体の外にある。私を形成するものは、肉体も精神も、すべて、私の外から私の中へ持ち込まれたものであるといえる。
プラトンによるとイデアとは「我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。」とある。
「出会い」によって心の土壌に播かれたタネは、プラトンのいうイデアに似ている。心の土壌に埋没してしまたタネのことを、わたしたちはすっかり忘れてしあっているが、それはなんらかの「いぶき」を感じて、ひらめきやアイデアとして芽を出すことがある。
●一期一会の「出会い」を重視する文化
わたしたちの記憶の仕組みは脆弱で、わたしたちは毎日、かなりの量の記憶を忘れていってしまっている。日々の体験の多く、食べたもののこと、見たもののこと、出会った人のことを、強烈な印象でもない限り、どんどん忘れてしまっていくことのほうが普通であり、正常であるともいえる。その忘れてしまったものは、みんな無駄なものなのだろうか?
覚えていないなのだから、思い出せないのだから、役に立てようもない。わたしたちは役に立たないものに対して、無駄と言ってしまう。
あらためて無駄とはなんだろう?辞書によると無駄とは①役に立たないこと。②やったかいがないこと。報われないこと。③無益なこと。とある。現代に生きるわたしたちは、生産性や効率や利益を重視し、体験でも記憶に焼きつくような強烈な刺激を求めがちである。無駄にしたくないという気持ちが多く、少しでも利益を上げたいと考えがちである。
しかし、一期一会の精神は、この世に無駄な体験、無駄な出会い、無駄な時間というものは、これっぽちもないという考えであり。すべての体験はわたしの心という土壌に、なんらかのタネとなって埋没してしまっているだけで、わたしはそのことをすっかりわすれてしまっているのだが、何かの拍子に、タネは「いぶき」を感じて、そのタネは「めぶく」のである。
日本の文化はさまざまな「出会い」によって、心に播かれたタネのことを大事にする文化である。日本の花鳥風月をめでる風習や伝統文化は、季節の変化によって、新たに訪れた新しい季節との一期一会の「出会い」を楽しむものであると考えられる。
また、俳句や和歌といった文化は、いつか「めぶく」かもしれないタネ。そのタネを播いた時の記録を文字として留めておこうとしたものといえるかもしれない。
たくさんのタネによい「めぶき」が与えられるように、自分を取り巻く「いぶき」をしっかり感じていかなければならない。そういう意味ではパスカルが『パンセ』で表したように「人間は考える葦」なのだろう。一方で、日々、膨大な量を忘れていきながら、他方で何かを考え続けて生きている。それは心に播かれたタネに良い「めぶき」を促すようなことともいえる。
禅僧は日常の茶飯事を非常に大事にしている。道元は宋から日本に帰ってき来て、禅宗を広める拠点として京都の宇治に興聖寺を建立し、その座禅堂や講堂や伽藍の建設と同時に『典座教訓』を表す。典座(てんぞ)とは修行僧の食事をつくる役職のことで、この中で道元が宋で体験したエピソードが書かれている。
宋に渡った道元は、上陸許可が下りないので、しばらくの間、船に足止めされていた。その時、日本からの船がやってきたと聞きつけて、ダシに使う良質の干しシイタケを求めて、5里も離れたところのお寺から老典座がやって来た。道元は「そんな食事の用意などは新入りの若い者にでもさせればいいではないですか。あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の議論よりも、そんな食事の準備などを優先させて、何かいいことがあるのですか。」と言うと、老僧は大笑いして、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない。文字は知っていても、意味を知らない。」と言い残して帰ってしまた。道元はショックを受けた。また、留学中の天童寺で。暑い日の昼間、腰の曲がった老典座が、杖をつきながら汗だくになって本堂の脇で海藻を干していた。みかねた道元が、「こんな暑い日ですから、誰か若い人にでもさせるか、せめてもう少し涼しい日にしたら良いのでは」と声を掛けると、「他の者にさせたのでは自分の修行にならん、今せずに、いつするというのだ」と返され、再び大きなショックを受けた。
若い僧にやらせると不平不満を言いながらやるかもしれない。それでは修行にならない。老僧が先頭を切って、実践して見せるということが、とても大事だったのかもしれない。経験豊かな老僧だからこそ、日々のすぐにでも、忘れていってしまうような、日常のありふれたことに、真剣に向かい合うことの大切さを知っていたともいえる。生きるために必要な食べるということ。日常生活ではあたり前の食べるということを大切な修行と考えるのは、食べたものが自分の身体となり、自身の活動のエネルギーになるからだろう、食べるということは、生きていくことの根本と同じくらい大事である。だからおそろかに、いい加減にしてはいけない。そこには生きることを真剣に考える哲学がある。
現在の道場の典座職には、修行経験が深く篤実温厚な人物が任命される場合が多く、修行僧たちの相談役として敬慕される者が多いという。それは食べることが生きることと直結しているからであり、食べることをおろそかにしては、生きることもおろそかになるからであろう。生きることそのものが修行であるということを強く意識しているからでもあるのだろう。
座禅をするとわかることだが、人間は考えることを一瞬たりとも、止めることができない。考えないようにしようとすればするほど、どんどんいろんな感情があふれてくる。禅では、それら込み上げてくるさまざまな感情に対して、良いとか悪いとかの判断を下さないようにという。それは「無分別智」といわれ、対象を分析する(分別する)ことなく、ありのまま、そのままでとらえることが重要とされる。
座禅で大切なことは、その身体的な行為そのものであると考えられる。つまり、体の動きを止めて、心と体を一体のものとし、さらに、五感の感度を下げて、感じてはいるが、感じられないほどの「うすらぼんやり」な状態とし、自分を取り巻く環境や風土と自分を一体のものとしていく。すべての境界を取り払い世界と自分とが一体となるようにしていく。
「心身一如」や「身土不二」という言葉で表される。
座禅とは、「出会い」によって心に播かれたタネに、「いぶき」を注ぎ込み、「めぶき」を促す行為ということもできるのではないかと考える。
ありのままに感じ取るのは、「It seems to me~(私には~に感じる)」という一人称で受け止める主観的世界。
これに対して論理分析的思考は「It is~(それは~である)」と三人称ですべてを客観的に外からとらえる。
西洋では、心と体を分けて考える心身二元論が発達し、知行分離のスタイルが発展した。つまり脳が体を支配する考え方であり、計画が実行を支配する方法である。
いままで、主観は自分勝手で、いいかげんなものであり。科学的・論理的に分析された客観には勝てなかった。ところがよく考えてみると、客観視しているのも人間であり、ただの主観の集まりかもしれない。
多くの出会いによってたくさんのタネを心の土壌に播いてもらった人の主観は、さらに考え抜かれた主観というものは、客観にも勝るのではないだろうか?
タネは希望を象徴することがある。タネに「めぶき」をもたらす「いぶき」の正体は「願い」であると考える。人は自分の欲望を満たすためには、かなり頑張ってしまうものではあるが、欲望にもいろいろあって、自分を超えて、社会や世界をもっと良いものに変えてやろうと思うのも欲望である。仏教ではこれを大きな欲望であるから「大欲」とし、自分の中で完結するような個人的な欲望を「小欲」として区別する。
タネに「めぶき」をもたらす「いぶき」の正体は「願い」であると考える。
わたしたちの「願い」がいつも美しいものであることを願う。
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