2016年10月5日水曜日

「いぶき」と「めぶき」と「出会い」の人間形成。

「いぶき」と「めぶき」と「出会い」の人間形成。

●東洋と西洋の風土による人間形成の違い

なぜ古着(ビンテージもの)に価値があるのか?それは価値とはその物体に降り積もった時間の量で決まるからである。ゆえに古いものには、たくさんの時間が降り積もっているので価値があり、新しいものには、時間が積もってないために価値が薄い。ドイツ人は古着を重んじるという。


マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』を読んだ和辻哲郎は、人間を育てかたちづくるものは、時間ではなく空間であると考え、『風土』を書いた。倫理学者である和辻哲郎の倫理学を一言でいうと人間存在を決めるのは「間柄」であるというものである。他者との関係性が人間の存在の意味を決める。たとえば、家庭では2児の夫、会社では課長さん、○○さんの後輩で、○○さんの先輩、地域社会では○○な人、趣味の世界では○○な人、そして駅前の大衆食堂に水曜日のお昼に、必ずひとりでランチにやってくる人と、ライフステージによって、または、対応する人によって人間存在の意味は変わる。決して不変なものではなく。変わり続けている。

◆和辻哲郎の『風土』は世界を自然環境の違いによって大きく3つに分ける。

第一は、東南アジア・中国・日本はモンスーン地帯。気候の特徴は、暑熱と湿気の結合である。これは人間にとって耐え難い苦痛であるが、同時に植物を繁茂させる好条件でもある。自然の猛威に耐えながらも、自然の恩恵に浴することも事実であり、ここに忍従的・受容的人間像が形成された。

第二は、アラビア・アフリカ・蒙古などの沙漠。気候の特徴は乾燥であり、自然に生気はなく荒々しい。この地域からは一神教が生まれる。その背景として、不毛地帯を生き延びなければならないこと。乏しい自然の恵みを求めて、部族間の激しい戦闘が繰り返され、ゆえに、絶対服従による部族内の結束が不可欠になった。唯一神への信仰が社会の結束を強めた。

第三はヨーロッパの放牧地帯。気候は夏の乾燥と、冬の湿潤。雑草を駆逐し、全土を牧場化できた。モンスーン地帯の自然に対する忍従も、沙漠地帯の自然に対する恐怖も必要なく、自然は人間に対して従順であり、合理的に対応する。こうした風土の中でヨーロッパの合理的精神・自由の概念・自然科学などが発達した。



日本は多神教の文化。一神教の文化とは、人を育てる教育の根本的な部分、発想の原点や基盤が異なるといえる。

キリスト文化圏の人間の成長のモデルの考え方の代表はアブハム・マズローの欲求の5段階説(欲求のピラミッド)だろう。人間の欲求を5段階に分けてまとめたもの。低次元の欲求が満たされたら、次第に高次元の欲求に移行していく。
①生理的欲求(生きていくためにの基本的な欲求、食欲、睡眠欲など)
②安全欲求(危険を回避して、安全安心な暮らしがしたいという欲求)
③社会的欲求・帰属欲求(仲間がほしくなる欲求)
④尊厳欲求(他者から認められたい・外的なモノではなく、内的な心を充たしたいという欲求)
⑤自己実現欲求(自分の能力を引き出し創造的活動がしたいという欲求)
日本でも「自己実現=人生の幸福」とよく言われるようになってきたが、マズローのいう、この5段ピラミットの頂点の自己実現欲求の中身は、キリスト教文化の中のものなので「人間は誰しも、神からこの世に使わされた使命がある。その使命にいち早く気が付いて、その使命を全うすることが人間にとっての一番の幸福である」というもの。よって欲求は欲望と明確に区別される。



キリスト教やイスラム教には『聖書』があり、それが民族文化をかたちづくる基盤となっている。そして人間形成にも重要な役割を果たしている。しかし、日本にはキリスト教やイスラム教の『聖書』のような教典=教科書がない。『古事記』のような神話はあるが、そこには「生き方」がはっきりとは示されているわけではない。和辻哲郎は、人間を決めているのは「関係」であるとした。日本では、人は自分を取り巻く環境、森羅万象のあらゆるもの、自分と関係をもったすべてのものが先生であり、そこから「生き方」を学んだり、感じとったりしているのである。

だから日本では「出会い」が非常に重要なものとなる。「出会い」が人を育てるのだから、どんな「出会い」を体験したかが、その人の人間形成・人間存在の意味にとって、とても大事になるのである。

●心という土壌に播かれたタネ

「種子」を仏教では「しゅし」とは読まずに、あえて「しゅうじ」と読ませる。この特別な種子は心という土壌に播かれたタネのことである。タネは、そのうちに秘められた生命が生きていくための適した条件がきちんと整う、その日まで、ひたすらじっと息をころして耐えている。しかし、ただ、じっと耐えているだけではない、いつか「めぶく」その時を見逃さないように、全身で、しっかりと、身の回りの、自分を取り巻く世界の「いぶき」を感じているのである。そして条件が整えば、その一瞬を逃すことなくつかまえて、「めぶく」のである。ひとたび発芽したなら、もう振り返ることもせず、休むこともせず、そのうちに秘められた生命を謳歌し、命が尽きる、その日まで全力で生きるのである。とてもきれいな花を咲かすかもしれないし、とてもおいしい実をつけるかもしれない。仲間と競うように、歌うように、伸びに伸びて大きな森をつくるかもしれない。



出会いによって人は心の土壌にタネをもらう。
しかし、そのタネがきちんと発芽して立派に育つかどうかはわからない。

東洋の人間形成のモデルの例として『人生五計』を取り上げたい。中国の南宋の時代の末期に、朱新仲(1097~1167年)は、宰相であった秦檜に従わなかったために辺境の地へ流され、その田舎暮らしの中で『人生五計』を表した。その内容は、各年齢別に何を学び、どう生きるかが書かれている。10歳代のころは、父母の養いで成り立っているから、父母の教えに背かない(生計)。20歳代は身を慎んで、学問、芸、家学を学び、身を立てる計画をすべし(身計)。30~40歳は家庭を営み、保つ計画をすべし(家計)。50歳では、世事に慣れていない子孫のために父親として計画をすべし(老計)。60歳になったら死後のことを計画すべし(死計)。

わたしたちは子どもから成長し青年となり壮年となり熟年となり老いていく。その人生の各ステージで、そこで出会う人から、その人と織りなす体験の中から、生活や仕事のさまざまな出来事の中から、多種多様な生きるためのタネをもらっている。

10歳代、生計の時代。わたしたちの心にはまず、親によって、祖父母によって、兄弟によって、生きるための基本的な力となるタネが播かれる。血縁と地縁の中のさまざまな体験の中で「ふるさと」というべき基盤が作られる。学校に通うようになると、学校でできた親友、恩師、ライバルなどからも、さまざまなタネをもらう。

子どもの頃の自然とのふれあいは、人間形成にとって、非常に重要なタネを与えるものではないかと思う。わたしたちの多くには幼い頃の記憶がほとんどないのが普通である。幼児性健亡とよばれ3歳以前の記憶は残りにくいことが知られている。ところが、昔から諺に「三つ子の魂、百まで」と言われてきた。誰も3歳までの記憶は持っていないが、それは人生の土台であり、心の無意識の世界に根を張る重要な時期と昔から考えられてきた。現代になって脳の発達の研究が進み、3歳までの環境が、人間形成によって非常に重要であることがわかってきたが、科学が発達して明らかにする以前から、経験的に「三つ子の魂、百まで」と、3歳までの出会いを重要視してきた。

自然とのふれあいが減ったこと。核家族化で、人間関係が希薄になったこと。都会では住空間が狭く、のびのびできないことなど。現代社会は人間形成にとって最も重要な、幼いときの出会いを奪い、そのタネ播き時期の環境を極端に悪化させている。

子育てや教育は、田舎で自然の中で、のびのびとゆったりと行うのがよいだろう。このことはやがて科学的にも、徐々に証明されていくことになると確信している。

20歳代、身計の時代。現代社会は何らかの技能を身に着けていないと生きにくい時代である。

ブルース・パスカルは『パンセ』の中で、「一生のうちで、いちばん大事なのは、どんな職業を選ぶか?これに尽きる。ところが、これは偶然によって左右される。習慣が石工を、兵士を、屋根葺き職人をつくるのだ。」「人は屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつきあらゆる職業に向いている。向いていないのは、部屋の中にじっとしていることだけだ。」「われわれの本性は運動のうちにある。完全な静止は死である。」すべての人は生まれながらに、すべての職業につく才能をもっているが、最終的に屋根職人を屋根職人たらしめているものは、偶然であるというが、それは「出会いの偶然」といえるだろう。そして、職業を決めるのはその人の習慣であるという。「習慣というのも出会い」といえるだろう。

「職業を選び、働き出す」ことは人生において非常に重要な場面である。それは、それまでにさまざまな「出会い」によって、心という土壌に播かれたタネが、何らかの「いぶき」を感じて「めばえ」たときといえるかもしれない。

天才数学者であったパスカルが、数学とはほとんど関係がない『パンセ』を書き残した理由。それは同時代を生きたライバルであるルネ・デカルトの思想への挑戦であったと考えられる。パスカルは『パンセ』の中でもデカルトを批判している。

デカルトは「人間の理性は万能であり、世界は精密な機械のようなもので、すべてには原因と結果があり、何事も因果関係で説明でき、予測もできる」と考えた。

それに対してパスカルは「人間の理性には限界があり、世界は偶然性によって左右され成り立っている」とした。だから予測もできない世界だからこそ、こそで人間は考え続けることで強くなれると考えた。「人間はすぐ折れる葦のように弱いが、考える葦だから強く生きられる」とした。人間の最終目的が幸福であるならば、人間はどのようにしたら幸福になれる。答えは一つではない。誰かの真似をしてもうまくいくとは限らない。できることは考え続けることだけ。幸福になるかどうかは偶然によって左右され、幸福になるための完璧な方程式もないし、答えもない。

現代の科学では、人間の細胞は新陳代謝し、100日くらいで入れ替わってしまう。つまり不変ではなく。変わっていくことの方が普通と考えらえている。そのように変わっていく肉体に対して、精神は不変であるとした。デカルトは「自分は絶対的に自分である」と考えた。肉体は変われども、精神は不変である。脳神経細胞は新陳代謝をしないので、現代の科学でも、脳神経細胞を自分だとするなら、「自分は、絶対的に自分だ」といえるのかもしれない?

パスカルは、人間形成は偶然の産物であると考える。良い出会いがあれば、それがよいタネとなって、よい「いぶき」があって、よい「めぶき」が生じる。しかし、逆もあるだろう。悪い「出会い」、悪いタネ、悪い「いぶき」、そして悪い「めぶき」というのもあるだろう。

30歳代、家計の時代、結婚し家庭を築き、子どもができると、子どもを介して、人づきあいが増えて、また多種多様なタネが播かれる。

デザインやアイデアというものは、ひとり自分の頭の中だけで完結して出てきたものだろうか?そうではないだろう。人間はこの世に一人きりでは、人間になることもできないとさえいわれている。その人の経験や体験が、新しいデザインやアイデアを生み出したものなのだが、たとえ、それが一人きりのときに生み出されたものだとしても、それが生み出されるに至るには、たくさんの人との関わりの中でいただいた発想のタネが関わっていることだろう。

バージンレコードの創業者リチャード・ブランソンの伝記には、Ⅰはひとつもない。ぜんぶWeなのだという。つまり私という一人称はまったくなく、わたしたちはと、常に自分は物を形のする仲間たちと共に事業に臨んだということが書かれている。

デザインはデ+サインで「上から、天から降りてくる形」が語源。アイデアもイデアが語源となっている。イデアは私たちの体の外にある。私を形成するものは、肉体も精神も、すべて、私の外から私の中へ持ち込まれたものであるといえる。

プラトンによるとイデアとは「我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。」とある。

「出会い」によって心の土壌に播かれたタネは、プラトンのいうイデアに似ている。心の土壌に埋没してしまたタネのことを、わたしたちはすっかり忘れてしあっているが、それはなんらかの「いぶき」を感じて、ひらめきやアイデアとして芽を出すことがある。

●一期一会の「出会い」を重視する文化

わたしたちの記憶の仕組みは脆弱で、わたしたちは毎日、かなりの量の記憶を忘れていってしまっている。日々の体験の多く、食べたもののこと、見たもののこと、出会った人のことを、強烈な印象でもない限り、どんどん忘れてしまっていくことのほうが普通であり、正常であるともいえる。その忘れてしまったものは、みんな無駄なものなのだろうか?

覚えていないなのだから、思い出せないのだから、役に立てようもない。わたしたちは役に立たないものに対して、無駄と言ってしまう。

あらためて無駄とはなんだろう?辞書によると無駄とは①役に立たないこと。②やったかいがないこと。報われないこと。③無益なこと。とある。現代に生きるわたしたちは、生産性や効率や利益を重視し、体験でも記憶に焼きつくような強烈な刺激を求めがちである。無駄にしたくないという気持ちが多く、少しでも利益を上げたいと考えがちである。

しかし、一期一会の精神は、この世に無駄な体験、無駄な出会い、無駄な時間というものは、これっぽちもないという考えであり。すべての体験はわたしの心という土壌に、なんらかのタネとなって埋没してしまっているだけで、わたしはそのことをすっかりわすれてしまっているのだが、何かの拍子に、タネは「いぶき」を感じて、そのタネは「めぶく」のである。

日本の文化はさまざまな「出会い」によって、心に播かれたタネのことを大事にする文化である。日本の花鳥風月をめでる風習や伝統文化は、季節の変化によって、新たに訪れた新しい季節との一期一会の「出会い」を楽しむものであると考えられる。

また、俳句や和歌といった文化は、いつか「めぶく」かもしれないタネ。そのタネを播いた時の記録を文字として留めておこうとしたものといえるかもしれない。

たくさんのタネによい「めぶき」が与えられるように、自分を取り巻く「いぶき」をしっかり感じていかなければならない。そういう意味ではパスカルが『パンセ』で表したように「人間は考える葦」なのだろう。一方で、日々、膨大な量を忘れていきながら、他方で何かを考え続けて生きている。それは心に播かれたタネに良い「めぶき」を促すようなことともいえる。

禅僧は日常の茶飯事を非常に大事にしている。道元は宋から日本に帰ってき来て、禅宗を広める拠点として京都の宇治に興聖寺を建立し、その座禅堂や講堂や伽藍の建設と同時に『典座教訓』を表す。典座(てんぞ)とは修行僧の食事をつくる役職のことで、この中で道元が宋で体験したエピソードが書かれている。

宋に渡った道元は、上陸許可が下りないので、しばらくの間、船に足止めされていた。その時、日本からの船がやってきたと聞きつけて、ダシに使う良質の干しシイタケを求めて、5里も離れたところのお寺から老典座がやって来た。道元は「そんな食事の用意などは新入りの若い者にでもさせればいいではないですか。あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の議論よりも、そんな食事の準備などを優先させて、何かいいことがあるのですか。」と言うと、老僧は大笑いして、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない。文字は知っていても、意味を知らない。」と言い残して帰ってしまた。道元はショックを受けた。また、留学中の天童寺で。暑い日の昼間、腰の曲がった老典座が、杖をつきながら汗だくになって本堂の脇で海藻を干していた。みかねた道元が、「こんな暑い日ですから、誰か若い人にでもさせるか、せめてもう少し涼しい日にしたら良いのでは」と声を掛けると、「他の者にさせたのでは自分の修行にならん、今せずに、いつするというのだ」と返され、再び大きなショックを受けた。

若い僧にやらせると不平不満を言いながらやるかもしれない。それでは修行にならない。老僧が先頭を切って、実践して見せるということが、とても大事だったのかもしれない。経験豊かな老僧だからこそ、日々のすぐにでも、忘れていってしまうような、日常のありふれたことに、真剣に向かい合うことの大切さを知っていたともいえる。生きるために必要な食べるということ。日常生活ではあたり前の食べるということを大切な修行と考えるのは、食べたものが自分の身体となり、自身の活動のエネルギーになるからだろう、食べるということは、生きていくことの根本と同じくらい大事である。だからおそろかに、いい加減にしてはいけない。そこには生きることを真剣に考える哲学がある。

現在の道場の典座職には、修行経験が深く篤実温厚な人物が任命される場合が多く、修行僧たちの相談役として敬慕される者が多いという。それは食べることが生きることと直結しているからであり、食べることをおろそかにしては、生きることもおろそかになるからであろう。生きることそのものが修行であるということを強く意識しているからでもあるのだろう。


座禅をするとわかることだが、人間は考えることを一瞬たりとも、止めることができない。考えないようにしようとすればするほど、どんどんいろんな感情があふれてくる。禅では、それら込み上げてくるさまざまな感情に対して、良いとか悪いとかの判断を下さないようにという。それは「無分別智」といわれ、対象を分析する(分別する)ことなく、ありのまま、そのままでとらえることが重要とされる。

座禅で大切なことは、その身体的な行為そのものであると考えられる。つまり、体の動きを止めて、心と体を一体のものとし、さらに、五感の感度を下げて、感じてはいるが、感じられないほどの「うすらぼんやり」な状態とし、自分を取り巻く環境や風土と自分を一体のものとしていく。すべての境界を取り払い世界と自分とが一体となるようにしていく。

「心身一如」や「身土不二」という言葉で表される。

座禅とは、「出会い」によって心に播かれたタネに、「いぶき」を注ぎ込み、「めぶき」を促す行為ということもできるのではないかと考える。

ありのままに感じ取るのは、「It seems to me~(私には~に感じる)」という一人称で受け止める主観的世界。

これに対して論理分析的思考は「It is~(それは~である)」と三人称ですべてを客観的に外からとらえる。

西洋では、心と体を分けて考える心身二元論が発達し、知行分離のスタイルが発展した。つまり脳が体を支配する考え方であり、計画が実行を支配する方法である。

いままで、主観は自分勝手で、いいかげんなものであり。科学的・論理的に分析された客観には勝てなかった。ところがよく考えてみると、客観視しているのも人間であり、ただの主観の集まりかもしれない。

多くの出会いによってたくさんのタネを心の土壌に播いてもらった人の主観は、さらに考え抜かれた主観というものは、客観にも勝るのではないだろうか?

タネは希望を象徴することがある。タネに「めぶき」をもたらす「いぶき」の正体は「願い」であると考える。人は自分の欲望を満たすためには、かなり頑張ってしまうものではあるが、欲望にもいろいろあって、自分を超えて、社会や世界をもっと良いものに変えてやろうと思うのも欲望である。仏教ではこれを大きな欲望であるから「大欲」とし、自分の中で完結するような個人的な欲望を「小欲」として区別する。

タネに「めぶき」をもたらす「いぶき」の正体は「願い」であると考える。

わたしたちの「願い」がいつも美しいものであることを願う。



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