●コース
①の続き
吉野川を「四国三郎大橋」で渡る。鮎喰川を渡り、鮎喰川南岸堤防、吉野川南岸堤防を東へ進む。古川橋のアンダーパスをくぐり、河川敷グラウンドの川側を東へ、住吉干潟まで行く。住吉干潟見学後、吉野川新橋の手前から吉野川南岸堤防下道路を東へ、吉野川の最河口を見学、マリンピアの県民活動プラザで昼食。「末広大橋」で新町川を渡り、「勝浦浜橋」で勝浦川を渡り、勝浦川の南岸を東へ。勝浦川河口干潟を見学。Uターンして、「勝浦浜橋」を再び渡り、勝浦川西岸堤防道路を南へ、国道55号「勝浦大橋」を渡り、勝浦川東岸堤防道路を南へ、田浦地区を見学。
●バスツアー見学場所要旨説明より
①四国三郎大橋
全長910.5m。1998年3月26日に開通。
②鮎喰川
- 吉野川の支流であり、河口から6 km上流(吉野川橋から1 km上流)の地点で吉野川に合流する。幹川流路延長は43 km、流域面積は198.7 km²。徳島県名西郡神山町にある雲早山に源流がある。ダムがない川。雨の少ない季節には、伏流水となり中流から下流では表層水が無くなることもある。
③吉野川汽水域
- 河口から第十堰まで14.5kmまで海水が上り、国内最大の汽水域を形成している。吉野川が現在の形となったのは、明治40年から昭和2年にかけて、河口から40キロ上流の吉野川の狭窄部岩津までの間の両岸に連続堤防が築かれたことによる。この堤防工事により、別宮川が放水路として整備され、現在の吉野川本流となった。
④吉野川橋(古川橋)
- 橋長は1,071m。17径間曲弦下路式ワーレントラス橋。1928年(昭和3年)12月に竣工。12年に1度塗装の塗り替えが行われる。
- 吉野川空港:大正11年(1922)11月。日本初の定期航空路が堺⇔徳島間に開設され、水上飛行機が吉野川から発着する。当時はパイロット1人、乗客1人の小型機。昭和32年、日本観光飛行協会が大阪堺⇔吉野川橋の旅客航空路線を開設。機材はDH ビーバー(客席数5)。翌年には機材がフロート式水陸両用機DHC-3 オッター(つばめ号、客席数14)となり、昭和35年にはグラマンG-73マラード水陸両用飛行艇が就航し伊丹空港発着となる。昭和38年にはコンベア240(客席数40)の就航で現在の徳島空港発着となり、吉野川空港はなくなる。
- 浚渫工事が行われているのは、新町川航路の掘削のため。
- 松茂の交通HPより・航空輸送と空港より
⑤住吉干潟
- 26万人が暮らす都市の中央を流れる吉野。その河口にありながら、良好な干潟が残っていることは奇跡かもしれない。シオマネキ・ハクセンシオマネキ・トビハゼ・フトヘナタリ・ヒロクチカナコ貝などが普通に見られる。
- 河口~吉野川大橋までの500haは1996年に日本で最初に「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ生息地ネットワーク(シギ・チドリ類)」に参加し、環境省の「日本の重要湿地500」にも選定され、さらに2010年9月には、ラムサール条約湿地潜在候補地となっている。
- ホウロクシギやズグロカモメなどさまざまな渡り鳥が訪れ、ヘラシギ、クロツラヘラサギは、定期的に飛来。
- 当河口域の生態系は豊富な生物相により支えられており、それぞれの個体群の規模も大きい。底生生物相は265種が確認されており、魚類は144種が生息している。
- 植物は,河口域ヨシ群落が環境省特定植物群落に登録されている。とくにシオマネキ・ハクセンシオマネキは個体数が多く安定している。
- 河口域は魚類の重要な食物源を提供しており、魚類144種が生息し、漁業資源として、アユ・アユカケ・サツキマスなどが依存する回遊経路となっている。
⑥吉野川河口
- 四国横断自動車道の橋(仮名称:吉野川河口大橋)の基礎工事が進められている。橋長:1700mは鳴門大橋よりちょっと長い。2019年完成予定。
- 進学と就職で、人口がどんどん流出して、減っていく四国。もともと日本の人口の3%の400万人しか住んでいないのだが、3今から30年で、さらに100万人減少し、四国は三国になる。四国が三国になったとき、この4本目の橋は「いらんかった」といわれるかもしれない。
- 南海・東南海大地震の際に海岸は津波と地盤沈下と液状化で壊滅的な被害を受けることが予想されており、東北の大震災を受けて、ライフラインを守るための道路はもっと内陸に作るべきではないかという声もあるが、走り出した公共事業は誰にも止められない。
- 沖洲人工海浜 四国横断自動車道の建設のため、ルイスハンミョウが生息している干潟を埋め立てることになり、徳島県は2007年、虫たちの生息地とし、市民の憩いの場にもなればと26億円をかけて近くに造成。その後、虫たちを移した。波打ち際に防護柵を設けるなどし、あえて場所を公表する手法で保護を図ってきた。2008年度は4匹、2009年度は26匹と次第に増加し、2010年度には49匹を確認したが、2011年度は8匹に激減、2012年度はついに1匹だけしか確認できなかった。野生の昆虫にとっては人工海浜は狭すぎたのだろうと考えられる。
- 読売新聞HPより・2013年5月10日「ルイスハンミョウ激減~徳島・東沖洲の人工海浜で保全」より
⑦県民活動プラザ(昼食)
- 県民活動プラザは、かつては徳島と大阪・関西国際空港を結ぶ高速船の港であった。1996年のマリンピア沖洲の埋立完了とともにマリンターミナル沖洲として開業。
- 1998年の明石海峡大橋の開通を受けて、高速バスの利用客が伸びるとに並行して高速船の利用者は減少し2000年2月29日に徳島・関西国際空港・大阪航路は廃止となる。
- その後、南海フェリーが徳島・和歌山航路を運航するが2002年1月31日に高速船の営業は終了となる。
⑧津田港
- 津田港は今は漁港であるが、江戸時代から明治まで阿波国の玄関港として栄えた。小松島港ができたのは大正時代になってから、小松島港が第2種重要港湾に指定されるのは1921年(大正10年)。
- 江戸時代の弘化・嘉永の年間には阿波と上方との間に、二百石船が出入りするようになり。阿波藩としても藩の表玄関として、津田河口御番所が設けられて、常時4名の役人がつめて、城下に出入りの舟の監視にあたっていた。出船は阿波特産の塩、藍、砂糖、煙草、反物、玄米などあり、その量は莫大な物。又、入船に関しては、その船の船籍地の庄屋の発行した手形により、行き先積荷乗船者の人数、又職業まで厳しく検査され手形の提出があった。出入りの船は関西のみならず、関東からの出入りが多くあった。
- 津田港の築港は幕末藩政末期の混乱時代、申請して代官所よりの許可は下りたものの、藩としても財力なく助成金の一切もない。この時に6名の世話人が立ち上がり、資金を工面し、住民達の労力によって、慶応元年の丑年に完成。築港の世話人6名の名が刻まれた碑が建っている。十四軒屋次良兵衛・大和屋虎蔵・湊屋茂兵衛・濱屋庄作・團弥助・大和屋与一兵衛の6人のうち、大和屋さんは盆唄に「鯛になりたや鳴門の鯛に、阿波の与一兵衛さんに釣られたい」と唄われている。回船問屋の数は40数軒あり、荷物を預かる白壁の土蔵が立ち並んでいた。「トウカイ」と呼ばれる大型帆船が沖に碇泊していた。蛭子神社「おいべっさん」を中心に盛り場ができ、賑わっていた。浄るりなど遊芸も盛んだった。明治13年の津田港からの積み出し記録:藍玉25万俵・砂糖4万6千俵・たばこ1万3千箱・反物30万反・玄米20万俵。関東売藍商と契約を結んだ大型船だけでも65隻。船舶の出入り414トンは徳島県の3分の2にあたる。
⑨末広大橋
- 1975年完成。橋長:470m(中央支間長:250m)大阪府の阪神高速湾岸線の大和川橋梁が1981年に完成するまでは、末広大橋が日本最長の中央支間長を有する斜張橋であった。現在ではしまなみ海峡の多々羅大橋、橋長:1480.0m(径間割:270.0m + 890.0m + 320.0m)が日本最長。
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⑩勝浦川
- 全長49.6km。流域面積224㎡。雲早山(標高1,495.9m)の東斜面に水源がある。
⑪勝浦川河口干潟
- 環境省の重要湿地500に指定されている。狭い範囲に、さまざまな種類の干潟があり、多様な生物が観察できる。シオマネキ・ハクセンシオマネキ・トビハゼ・フトヘナタリなどがいつ行っても普通に見られる干潟は、すでに日本にはあまりない。
⑫勝浦川流路変更
- 蜂須賀氏が阿波に入国し、現在の徳島城を築城したのに合わせ、勝浦川を現在の流路に変えた。それまでは、小松島港にそそぐ神田瀬川やその南の芝生川が本流であったが、現在の田浦から江田への南岸堤防と同じ位置に百間堤を築き、大松川へ流れるようにした。これにより小松島の水田開発が行われ、勝浦川流域の物資を水運で徳島城下へ運ぶことが容易になった。
- 蜂須賀氏は城の西の鮎喰川が現在の佐古川に流れ込んでいたのを堤防をつくり吉野川へつなげ、第十堰あたりを運河をつくり別宮川へ水を引き入れ、現在の吉野川の流路にした。城の南の園瀬川を眉山に沿わせるように付け替え、さらに冷田川へ流れていたのを堤防で止めて、現在の流路にし、上八万・八万の水田開発を行った。現在の川筋は、蜂須賀氏による土木工事によってのものが多い。
- 蜂須賀氏は、尾張国蜂須賀郷に領地をもち、木曽三川を背景に水運と河川土木に長けた一族であった。秀吉の墨俣一夜城の築城、備中高松城の水責めの築堤担当として活躍している。時代劇では盗賊の親分や巨漢の猛将のように描かれることが多いが、これは面白くするための創作であり、歴史の上では、秀吉の腹心で、戦後処理交渉などに活躍している。ハチは多い、スカは中洲を意味する。木曽三川の大河が育てた一族であり、それが大河の国、阿波国を与えられたのだから、適材適所であったことだろう。
⑬勝浦川中洲に残る昔の堰
- 勝浦川中洲に残る昔の堰は、水田に水を引き入れるための堰。かつては村ごとに堰があり、お米作りの始まりに、堰を修復するという重要な仕事があった。山からシダやウラジロを獲ってきて、石の間にはさみ崩れにくくし、鋤簾(ジョレン)で砂利を集めてきて、石組の堰を砂利で埋めて頑丈にした。
⑭田浦町西原の水車
- 井口から引き込まれた勝浦川の水は毛細血管のように、幾重にも枝分けれしていき、小松島市の水田の3分の1を潤す。
- 江戸時代の『阿波国名所図会』に掲載されている「母川のホタルと水車」の絵の水車と基本的に構造は同じ。変わった部分は水をくみ上げる桶が粉ミルクの缶になったことと麻ロープがマイカー線になったことくらい。
⑮新居見の土偶
- 勝浦川の東には「にいのゐ郷」、勝浦川の西に「たから郷」、丈六寺付近に「しのはら郷」、日ノ峰の山麓に「あまるべ郷」があった。「にいのゐ」は新しい井戸のこと。実際に勝浦川の伏流水が湧いている清浄ヶ池がある。
- 2011年、高速道路建設工事に伴う発掘調査で、小松島市新居見町山路の新居見遺跡から、縄文時代晩期のものとみられる土偶1体が出土。県内で縄文時代の土偶が確認されたのは初めて。出土した土偶は、腹から脚にかけての下半身のみで、高さが7.6㎝、厚みは最大2.5㎝。胴と脚の境、脚とかかとの境、尻と背中のくぼみには線が引かれ、へその部分はベンガラで赤彩されていた。脚の破損した部分やX線写真から、頭や脚などの部位を別々に作り、胴体を中心につなぎ合わせる手法でつくられたもの。呪術や儀礼に使用する土偶の発見は、そこにある程度の人が棲む集落、つまり社会が営まれていたことを意味する。
⑯田浦の埴輪祭祀あとと流れてきた神様
- 田浦の前山にミカン畑やタケノコ山をつくる際に、人型埴輪や盾型埴輪が発見された。古くから人の営みがあったことを示している。子安観音はかつて、前方後円墳であった可能性があり、勝浦川の氾濫で墳丘の盛り土が流出し、古墳に使われていた埴輪が露出したのを、住民が見つけ、山麓に移して埋め直したものではないかと考えられる。
- 中田町の建島女祖神社には、八幡神が合祀されているが、この八幡さんは元は多家良町本庄にあったのが、洪水で流れてきて、江田町で中田西八幡神社(澤星八幡)として祀られていたもの。
⑰田浦町の有機栽培水田
- 上王子特質米生産組合は上王子神社の氏子で結成された減農薬米の生産組合。のちに無農薬栽培になる。
- 平成元年(1989年)から減農薬米の生産と販売の活動を始め、
- 平成16年(2004年)からホタルと水車の保全活動をしている
- 平成19年(2007年)に種子殺菌を農薬から温湯に変えることで、完全無農薬栽培にとなった。
- 平成26年(2014年)新嘗祭に献穀
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