2016年7月3日日曜日

コウノトリ・ナベヅルの生息地をめぐるバスツアーin徳島①

2016年7月3日(日)実施。

●コース

徳島市東沖洲マリンピアを出発。吉野川を「阿波しらさぎ大橋」で渡たり、今切川を可動橋の「加賀須野橋」で渡る。国道11号線を北へ、鳴門市大津より農免道路を西へ。県道39号線を南へ、旧吉野川の北岸堤防道路を西へ。JA徳島北津慈集出荷場でバスを降りて、コウノトリの巣を鴨原より見学。「鳴門藍住大橋」で旧吉野川を渡り。県道41号を南へ、「四国三郎大橋」で吉野川を渡る。②へ続く。

●バスツアー見学場所要旨説明より

①吉野川

  • 幹川流路延長194 km。流域面積3,750 km²。
  • 源流は愛媛県西条市と高知県本川村(現在:いの町)に頂を有する瓶ヶ森(標高1896.2 m)にある。
  • たびたび洪水を引き起こす暴れ川として有名。日本三大暴れ川のひとつ。利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び四国三郎の異名を持つ。
  • 阿波国内での豪雨の他に、上流の土佐藩領内で豪雨が降ると、阿波で雨が降らなくても水害に見舞われる状況であった。このため阿波での豪雨に伴う水害を「御国水」、土佐藩内での豪雨に伴う水害を「阿呆水(土佐水)」と呼んだ。初期の対策としては築堤の他水防竹林の植生があり、「筍奉行」を設置して竹林の整備を重点的に行った。一方、住民の水防対策としては「石囲い」や石垣による住居嵩上げで防衛策を取った。石井町に現存する「田中家住宅」は石垣で囲まれた江戸時代の屋敷構えを残し、国の重要文化財に指定されている。
  • 吉野川・勝浦川の河口干潟は「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ」に参加している。
  • 9ヵ国の政府(日本、豪州、米国、韓国、ロシア、インドネシア、フィリピン、シンガポール及びミャンマー)と、ラムサール条約事務局等の国際機関、国際湿地保全連合等の国際NGO等、計16主体が参加し、2006年11月6日にインドネシア・ボゴールにおいて開催された「渡り性水鳥、湿地及び地域住民に関する会議」(新パートナーシップ発足式)において、「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ(渡り性水鳥保全連携協力事業)」がはじめられた。渡り鳥の保護については、これまで二国間条約・協定(米国・豪州・ロシア・中国)に基づく二国間協力のほか、多国間協力の取組としては「アジア太平洋地域渡り性水鳥保全戦略」に基づき、渡り鳥の生息地の国際的ネットワークの構築等の取組が行われてきたが、これを発展させるもの。


②阿波しらさぎ大橋

  • 川幅1キロにおよぶ吉野川と橋の下にある河口干潟をバスから見る。
  • 橋長1,291m。2012年4月25日に開通。
  • 当初は水底トンネルによって干潟を回避する案も検討されたが、かさむ建設費や付近を走るメジアンライン等(中央構造線)の問題があったため、最終的には橋梁案が採用された。この計画には、干潟を守るためのさまざまな工夫が盛り込まれている。
  • 干潟の上にあたる部分を吊り橋にすることで橋脚の数を減らし、干潟への影響を最小限に抑える。独自の工法であるため、「ケーブルイーグレット(イグレット)工法」と名付けられた。「イーグレット」とはシラサギのこと。
  • 主塔の高さを29.5mと出来るだけ低くし、ケーブルの本数についても1本と従来より少なくすることによって、シギ科、チドリ科等の野鳥の飛来に影響を及ばさないようにする。
  • 高欄照明を採用することで、夜間、橋上以外に光が漏れないようにする。
  • 施工段階においては、桟橋を用いるのではなく台船を浮かべて工事を行う。これによって、干潟への直接的な影響を避ける。


③川内町富吉の蓮田

  • かつてナベツルが越冬したことがあった。
  • 川内町の東側(海側)はサンドポンプによる砂地畑造成によって鳴門金時の畑になっている。
  • 鶴島という地名もある。


④川内町平石の蓮田

  • 平石の地名の由来は、大阪城築城のための石材を運ぼうとしていた船が浅瀬で座礁して、航行不能となり、ここに大きな平石が長らく取り残されていたためという。


⑤今切川・加賀須野橋

  • 旧吉野川から分岐している今切川。川の蛇行する様、「今は切れている」という名前が暴れ川ぽい。
  • 洲や須という地名が多い。これは川が縦横無尽に自由に流れたあとにできた中洲地形・島地形に由来する。
  • 江戸時代から「下寄街道」とよばれ、交通の要所であり、渡船が運航していた。初代(1888年、明治21年)地元有志により民営の賃取橋ができる。2代目(1923年、大正12年)県に移管され新設無料化。3代目(1954年、昭和29年) 跳上式開閉橋になる。1961年、昭和36年、幅を広げる改良がされる。4代目(2014年8月8日)橋桁が水平のまま上昇する昇開式の現在のものになる。車道橋としては日本一長い可動部(44.1m)である。2位三重県江の浦橋(30.0m)、3位秋田県の大潟橋(16.3m)、歩道専用橋としては熊本県の瀬戸歩道橋(50.0m)が国内最大。


⑥松茂の新田開発

  • 吉野川下流域は稲作より藍作が多かったが、藩も藍作を奨励はしたが、お米を作らさなかったわけではなかった。人口増加や天候不順に伴う飢饉の頻発、藩財政の逼迫等複合的要因から新田開発による年貢増徴を藩は図ろうとしたが、実情は藩主導というよりは筑後川と同様に庄屋等の民間主導によるものであった。
  • 17世紀中頃に大坂の豪商・三島泉斎によって着手された笹木開拓は、洪水や波浪によって事業は頓挫し泉斎は破産。その後数代を経て難工事は完成した。
  • 続く1783年(天明3年)には伊澤亀三郎による開拓が行われた。これは大坂の豪商・鴻池家の援助により行われ、子の伊澤速蔵・孫の伊澤文三郎の3代に亘り笹木開拓地の北端・西端に石積み堤防を築き波浪・洪水を防止、開拓を成功させた。これを住吉新田と呼び現在でも伊澤家3代の遺徳が偲ばれている。
  • さらに1804年(文化元年)には坂東茂兵衛によって豊岡開拓が行われ、防潮・防風を目的に20万本の松を植林し築堤。今切川下流の新田開発を図った。この開拓は孫で今切川用水裁判人の役職に就いていた豊岡茘敦(れんとん)によって完成を見た。


⑦川砂をサンドポンプで吸い上げて造成した砂地客土畑

  • 亀谷登氏(鳴門市大津町大代・大正8年生まれ)の提案によって、南海大地震で地盤沈下した田んぼに旧吉野川の川砂をサンドポンプで吸い上げて砂地畑を造成する計画をし、稲作転換事業として国の許可を得て、昭和44年(1969年)に106haを造成する。造成砂地畑には、隣の里浦を見習い夏は鳴門金時、冬は食用大根を作付、1年で工事費を取り戻すほどの稼ぎを生み出した。これは数年の内に、大津の残りの地域、松茂、川内に広がり、1000haが造成された。戦時中、川を浚渫することができなかったので、吉野川の支流には大量の砂が溜まっていた。この客土事業は、稲作転換事業として奨励され、国の補助や融資が受けやすく、稲作転換の成功例として全国に宣伝された。この1000haの砂地畑の平成10年(1998年)の生産額は約120億円。徳島県の耕作面積26,428ha・総生産額は1,890億円。鳴門地方の砂地畑の面積は徳島県の耕作面積の4%だが、生産額は6.3%を担っている。
  • 立石一著『阿波型農業物語』2007年・徳島県農政クラブより


⑧鳴門市段関の蓮田


⑨旧吉野川

  • 塩害対策の可動堰によって淡水化されている。
  • 河岸には木々が生い茂り、人為的攪乱が少なく自然生態系が戻ってきている。


⑩JA徳島北津慈集出荷場

  • レンコン栽培の実際について徳島県の営農普及センター担当の方からレクチャーを受ける。
  • 徳島のレンコン栽培は、日本で2番目。1番の茨城県の作付面積は3分の1くらい。出荷量は5分の1くらい。周年で出荷でき、大阪市場では9割が徳島産。
  • 大正8年に松茂町の農家佐藤竹太郎氏が岡山県から種レンコンを導入したのが始まり。
  • 昭和21年の南海地震による地盤沈下で、水稲が塩害を受けたことで、比較的塩害に強いレンコン栽培が広まる。
  • 昭和44年から始まる減反で、レンコンが奨励作物になり、水田からレンコンへの転作が増加。レンコンと収入と転作奨励金のW収入があった。栽培面積は昭和45年頃には1000haを超える。現在は600ha。
  • 初期のレンコン畑は鳴門市大津、松茂町、徳島市川内町であったが、この地帯は昭和46年より、砂地畑の造成が始まり、レンコン畑は少し内陸の鳴門市堀江、大麻、板野町、上板町、藍住町と吉野川低湿地帯へと移っていった。
  • 昭和58年にはレンコン掘り取り機(小型バックホー)昭和62年には自動洗浄機が導入されたことにより、作業の省力化が非常に進んできた。
  • 儲かるので、会社化でき後継者もいる。新規に参入したい人も受け入れたい。
  • 地元の小学校が子どもが少なくて廃校になってしまった。レンコンを盛り上げることで、若い世代を増やし、小学校を復活させたいとのこと。


⑪鴨原のコウノトリの巣

  • 津慈集出荷場から歩いて見に行く。今年は卵は産んだが、孵ることはなかった。無精卵だった可能性もある。また夫婦ゲンカをしてメスは兵庫県に帰ってしまったが、現在も巣が健全に保たれているのは、別のメスがフォローしているため。


⑫野神の産直市場(トイレ休憩)

  • 人口26万人の徳島市のベットタウンとして人口が増えている藍住町には、徳島県最大のショピングセンターゆめタウン(延床面積:12万5,000m²・施設面積:4万0000m²)がある。この農産市場は、そのゆめタウンから北に3㎞離れている。
  • 藍住町は1965年頃までは人口は減り続け、一時期は1万人を割り込んでしまったが、その後、住宅開発が盛んになり、1985年には2万2000人を超え、2000年には3万人を超えた。
  • 徳島市を中心とする北環状線道路が町の中心を走り、田園風景は住宅地と商業地に変わってしまった。


⑬藍住町住吉

  • 源義経が通った道を逆走する。平家を経済的に支えた阿波の豪族田口氏は、宋との貿易港である大和田の泊をつくり、福原京を造営した。その財力の源は吉野川平野であった。源平の合戦のとき、屋島を攻めるために、源義経は小松島に上陸し、田口氏の城を攻め、人質をとったため、平家は屋島を捨て敗走し、壇ノ浦の合戦のときに阿波水軍は平家を裏切り、源氏に勝利をもたらした。
  • 細川氏の家臣三好氏は吉野川平野の経済力を背景に、大阪に堺幕府を開いた。織田信長は三好長慶の堺幕府を手本に天下取りに進んでいったと考えられている。
  • 藍住は幅3mのトンネル栽培の春先人参の産地。人参の前には、漬物用のウリ、沢庵用大根の一大産地であった。阿波沢庵は神戸での販売が当たり、大正時代の「麦飯に沢庵」の時代に全国制覇を成し遂げる。この時、徳島の沢庵屋は、全国の漬物屋と婚姻関係を結んだ。その名残が、信州野沢菜漬けの原料野沢菜の産地、奈良漬の白ウリの産地として残っている。徳島に沢庵漬けが広まったのは、鳴門の塩と藍で培った発酵技術、阿波晩生という沢庵に適した品種、大根栽培に適した土壌、藍の時代に大根はワラと交換できる重要な作物であり、盛んにつくられていたこと。化学染料によって藍が衰退した後、多くの藍玉の発酵床が沢庵漬けの樽を置く場所に変えられた。


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