2017年2月18日土曜日

ゆるキャラ大集合でミニコンサート「新鮮でおいしい野菜とお米たち」


2月26日(日)午前9:30~アスティとくしまに「ゆるキャラ大集合」で、歌姫中原綾香ちゃんとミニコンサート「新鮮でおいしい野菜やお米たち」をやるぞ!みんなあつまれ!入場無料!

歌姫中原綾香ちゃん

参加予定のゆるキャラ!

すだちくん
あななん
ちょぞっ娘ちゃん
ゆずかっぱ
えびー太
ふじっこちゃん
かわに~ズ
トクシー
こまポン
あわみちゃん
うずしおくん・うずひめちゃん
ちっかーず
ふるるん
ムヤくん
あいのすけ
秘境龍

みなさん、お誘いあわせの上、どうぞご来場ください!

2017年2月10日金曜日

かーちー・ちーかー・ママン











淡路の福良の人形浄瑠璃のチケットをもらった。傾城阿波の鳴門の巡礼お鶴の段を見に行く。おいしいお昼をどこで食べるかを、さんざん研究して、港町なのに魚ではなく豚カツという選択に至った。

その店はカフェというよりトンカツ専門店のような感じ。使用されている豚は地元南あわじのサングリエ牧場の金猪豚(ゴールデン・ボア・ポーク)またの名を「淡路いのぶた」またの名を「淡路島ポーク」という。猪・黒豚・デュロック・ゴールデン神出との4元交配により生まれたイノブタ。

肉質が軟らかく、脂肪が甘く、融点が低い、不飽和脂肪酸のオレイン酸の含有量が多い。通常の豚の肥育期間が6か月であるところを、生後6か月以降は抗生物質の投与をせず、さらに3ヵ月間肥育しているという。

小雨の降る日曜日のお昼時、地元の人と、大きな旅行カバンを抱えて旅行に来ている人。若い人、お年寄り、家族、カップル、女子旅の方で全部の席が埋まっていた。注文の品が出てくるまで、長い時間が流れたが、とても居心地のよい店だった。庭には白い梅の花が咲いていて、大学生がつくった冊子を読んだ。

「ちりめん」と「かえりちりめん」の間にかえりが多く混ざったちりめん「かーちー」とかえりの混ざりの少ない「ちーかー」があると書いてあった。おもしろい。

2017年2月3日金曜日

地獄から極楽へ向かう細い一本道がありました


徳川家康公の孫であり水戸の徳川光圀公の実兄にあたる賴重公は法然上人を追慕して浄土宗に帰依し、高松入国ののち、寛文8年6月(1668年)竹井葵庵を奉行として3年の歳月を費やして三十ニ門、二十余宇の仏閣僧房を建立。法然上人自作の阿弥陀仏および上人の真影を本堂に安置し、また上人墓と松平家の墓所を山頂に築いて「般若台」と名づけ、檀下に来迎堂をもうけて弘法大帥自作の阿弥陀如来ならびに二十五菩薩を祀り、不断常念仏会を行わせた。


「二河白道」とは、地獄から極楽へ向かう細い細い一本道。一本道の右の河は貪りや執着の心がうずまく水の河。左の河は怒りや憎しみが燃え上がる火の河。盗賊や獣の群れも同じく欲を表して追いかけてきている。東岸からは釈迦の「逝け」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ」という声がする。 この喚び声に応じて人びとは白い道をとおり西岸にたどりつき、悟りの世界である極楽へ往生を果たすというもの。法然寺の参道は「二河白道」を模している。



参道の脇には十王堂がある。中をのぞくと閻魔様と冥界の十王様と奪衣婆がこちらをにらんでいる。人は死ぬと、49日の間、7日ごとに閻魔様と冥界の十王様によって生前の罪が裁かれるのだという。49日の判決が下されるまでは、人の魂は家の周りを浮遊しているといわれている。

初七日には泰広王(不動明王)が書類審査。
ニ七日には初江王(釈迦如来)が三途の川のほとりで裁判。
三七日には宋帝王(文殊菩薩)が邪淫の業についての審査。
四七日には五官王(普賢菩薩)が計りで罪の重さを量る。
五七日には閻魔王(地蔵菩薩)が水晶の鏡で生前の業績をつぶさに映し出し、裁きを申し渡す。
六七日には変成王(薬師如来)が五官王の計りと閻魔王の鏡で、生前の功徳を再審査。
七七日には太山王(薬師如来)が善因・悪縁を審査、判決の確定。

裁判の結果、地獄や餓鬼道に落ちた者も、残された遺族が功徳を積むことで再審査を受けることができる。百日には平等王(観世音菩薩)が、一周忌には都市王(勢至菩薩)が、三回忌には輪転王(阿弥陀如来)、七回忌には華花王が、十三回忌には祇園王が三十三回忌には法界王が再審査を行うといわれている。


参道で振り返ると見返り地蔵堂が見える。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世には仏が不在となってしまうため、その長い長い救いのない時代の間、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六道を輪廻する衆生を救うのが地蔵菩薩であるとされる。阿弥陀菩薩の「来たれ」という声に背を向けると、そこには地蔵菩薩の救いがあるという演出である。


参道をゆくと、ベンガラ瓦の黒門とよばれる極楽の入口がある。黒門をくぐると、極楽浄土を模した法然寺がある。




法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として讃岐国に流罪となった。讃岐国での滞在はわずか10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現在の香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。

なぜ法然は流刑となったのか?

元久2年(1205年)、奈良興福寺の衆徒が法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に「興福寺奏状」を提出した。

奏状は、専修念仏を非難する理由として具体的で詳細な「9か条の失」を掲げている。
①「新宗を立つる失」正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てること。
②「新像を図する失」専修念仏の徒のみが救済されるという、根拠に乏しい図像を弄すること。
③「釈尊を軽んずる失」阿弥陀如来のみを礼拝して仏教の根本を説いた釈迦を軽んずること。
④「万善を妨ぐる失」称名念仏だけを重んじて造寺造仏などの善行を妨害すること。
⑤「霊神に背く失」八幡神や春日神など日本国を守護してきた神々を軽侮すること。
⑥「浄土に暗き失」極楽往生にまつわる種々の教えのなかで特殊で偏向した立場に拘泥すること。
⑦「念仏を誤る失」さまざまな念仏のなかで、もっぱら称名念仏に限って偏重すること。
⑧「釈衆を損ずる失」往生が決定したなどと公言して悪行をはたらくことをおそれない不心得な念仏者が多いこと。
⑨「国土を乱る失」国を守護すべき仏法の立場をわきまえず、正しい仏法のあり方を乱してしまうこと。

①②⑥は法然に対する直接の非難であるが、法然に対し、その行動の原因となっている専修念仏宗義の一部を見直し貰うように朝廷へ働きかけることが目的であったとする。むしろ攻撃対象は、法然その人ばかりではなく、法然に帰依した「無智不善の輩」に対して向けられている。③④⑤⑦のように専修念仏の徒は念仏以外のいっさいの信仰を否定する傾向が顕著であり、⑧にみられるように、極端な例では、罪業深き悪人でさえ救済されるのであるから、戒律や道徳は無視してよいと考える狂信的な人びとを含んでいたという。

奏状はさらに、浄土宗の教えは京都周辺ではまだ穏やかなものだが、北陸地方や東海地方などではさかんに破戒がおこなわれていると訴えている。これは①⑤⑨で主張しているように、つねに国家と結びつき、「王法すなわ仏法」の立場に立って鎮護国家の思想を前面に打ち出していた既成の教団にとって強い危機感を生じさせるものであった。ここには、八宗が並んで国を護ることが日本仏教のあるべき姿であるという主張と、すべての経典・経論を見わたしたうえで、あらゆる立場に対しそれぞれ得るところありとするような教学大系の保持が尊重されるべきであり、特殊な教説を選択してそこに固執するという信仰姿勢は容認できない異端の説であるという主張がみとめられる。

この奏状によって法然は流刑になった。というより翌年に起きた下記の事件が直接の決め手となったという。

後鳥羽上皇が寵愛していた女官に19歳の松虫姫と17歳の鈴虫姫の姉妹がいて、この両姫は、法然上人やその弟子から念仏の教えを拝聴し感銘され、いつしか仏門に入りたいと願うようになり、建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中に秘かに京都小御所を忍び出て、法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた「東山鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞う。最初、両人は出家を認めませんでしたが、「哀れ憂き この世の中にすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき」という両姫のお詠に感銘され、出家を許します。熊野から帰ってきた後鳥羽上皇は激怒し、遵西・住蓮を斬首の刑にし、法然を流罪にした。

その後、両姫は法然の弟子の勧めで、瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防に移り住み念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられている。

貴族など身分の高い人に独占さえていた仏教をはじめて庶民のものにした法然の宗教改革は、既存の国家と太く結ぶ付いていた宗教者からは脅威に思えたのかもしれない。

鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された法然は立ち寄った那珂郡小松荘(現在のまんのう町)に生福寺を建立する。時は流れ、戦乱の中で生福寺は荒れ果ててしまった。それを江戸時代の始めに移築、再建したのが法然寺である。そこには「極楽」が再現された。
法然寺の仏像は京都の仏師によるものであると考えられている。三仏堂には阿弥陀菩薩・釈迦如来・弥勒菩薩の三尊が安置されているが、阿弥陀と弥勒の台座裏には墨書で「室町通一條上ル福長町」に住まう大仏師吉野右京藤原種次により、寛文13年9月(1673年)に造立されたものであることが分かっている。仁王門の金剛力士像は京仏師の「清安浄夢」とその弟「清水吉左衛門」を中心に製作が進められていることが解体修理のときに発見された墨書から分かっている。そして金剛力士像の完成は延宝2年(1674年)であったという。法然寺の伽藍は3年で完成したといわれているが、金剛力士像は伽藍完成から4年後のことであった。

貞享2年(1685年)開版の京の職人一覧『京羽二重』には、25名もの大仏師が記載されている。そこには「吉野右京」の名はあるが、「清安浄夢」の名前はない。

2017年2月1日水曜日

山籠れるペルトナーレ


誰かが、さそってくれると出かけやすい。寒い寒い冬の日のお昼。道案内してくれ人がいないと、たぶんたどり着けない。月ヶ谷温泉に車を止めて、その裏山に登っていくと、食欲をそそるオリーブオイルのとてもいい香りが漂う。


鱈のカルパッチョだったと思う。味は覚えているが、料理の名前はすぐに忘れてしまう。


ハムとイチゴとオレンジと野菜たちのそれぞれの味が口の中で交じり合い。はじめて経験する味わいであった。



阿波ポークのステーキ。塩の燻製と、キュウリのカラシ漬けで食べる。









黒板には「七草なずな唐土の鳥の日本の土に渡らぬ先に」の七草を刻むときの歌が書いてあった。

農文協編の『日本の食生活全集36聞き書徳島の食事』1990年発行によると、

吉野川の北岸、阿波市土成町では、大鍋に米2合に、水1升をおくどにかけて、セリ、小松菜、ホウレンソウ、蕪、大根、ニンジンの葉、山東菜など手に入る青菜7種を入れた粥をつくって家族で食べて長寿を祝う。青菜を小さく刻むときに「七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に スットントン スットントン」と歌いながら小さく小さく刻む。

祖谷では、具が七種になればよく、モチ、豆腐、まいもの小芋、青菜などで七種そろえて、神仏のお供えするので、ジャコは使わず味噌だけで味をつける。神仏のお供えした後で、家族揃って食べる。

那賀奥では、七日正月におみいさんを炊く。前日に杓子菜や大根を洗っておく、仏さんに供えるのでジャコは使わない。味噌味をつける。

那賀川下流の阿南市羽ノ浦では、前日に田んぼに七草をつみに行く、7種そろわない場合は、杓子菜やホウレン草で補う。七草は粥にせず、白味噌あえにする。七草をゆがいて、まな板にのせ、れんぎ(すりこぎ)と杓子を両手に持って、七草をたたきながら「七草なんなん唐土の鳥が日本の国へ渡らぬ先に、七草なんなん」と歌う。七日の朝に、家族がめいめいにゆがいた七草をたたいてから、白味噌であえる。正月用に白味噌をつくる風習がある。七草の白味噌あえの他に、特に「おせち」と呼ぶおなますと白飯をお棚にお供えして、残りは家族でいただく。

鳴門市では、神棚にご飯と七草のおあえを供える。この日は仕事を休み。家族で七草のおあえと餅を食べる。餅は醤油や砂糖をつけて食べる。「七草なずな、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬさきに、こーとことや、こーとこと」と唱えながら包丁の背で七草を叩き、さっとゆでて白味噌、ごま、砂糖で味をつける。

吉野裕子著『五行循環』人文書院刊、1992年によると、

七は「火の数」、それによって剋されるのは鳥で、酉も唐は西の方位で、金気の方位である。七草は金属の包丁で叩かれる。これも金気を剋する呪術といえる。

正月寅月は、木気の方位「寅卯辰」のはじまりにあたる。正月の祝物は、角松に代表されるさまざまな植物。木気に属する鱗族=即ち魚も祝物となる。

木気を損なうものは金気で、金気を剋する火気を使うことは、木気を助けることになる。ドンド焼きや鳥小屋とよばれる小屋が焼かれるのも、火による火剋金による木気を助ける呪術といえる。













2017年1月24日火曜日

海を見下ろす丘にある弥生の鉄器工房遺跡






五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期初め(西暦20~30年頃)から弥生後期末(西暦200年頃)まで、営まれた国内最古で、かつ最大級の鍛冶工房村遺跡。

海岸から約3km入った標高200mの播磨灘を見下ろす南北の尾根筋の西面から東西に延びる枝尾根上に南北約50m・東西約500mの範囲で約170年間にわたり継続的に維持された集落遺構。23棟の竪穴住居のうち13棟に鍛冶遺構がある。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見されている。

この遺跡で一番古いSH-204は石器の工房と考えられている。その後、鉄器の鍛冶工房へ移って行ったと考えられている。



約170年間で5期にわたり 2~3棟の鍛冶工房が枝尾根上を移動しつつ維持された。 この建物跡は、通常の集落と異なり、生活の痕跡は見られず、鍛冶工房に特化した高地性集落であったと考えられる。6キロほど離れた場所にある舟木遺跡は、現在発掘中であるが、その面積は40ヘクタールほどあると考えられている。近くにある舟木石上神社には、巨石の磐座がある。淡路島北部の弥生の遺跡は、弥生中期(紀元前)は少なく。五斗長垣内遺跡が営まれた時代と同じ弥生後期になるとたくさん営まれ、五斗長垣内遺跡が営まれなくなる庄内期になるとぐんと少なくなる。淡路北部の弥生後期の集落は五斗長垣内遺跡を中心に栄えていたといえるかもしれない。



弥生土器の量は土器片でコンテナ約200箱分が出土。小型土器・絵画土器を含む壺・甕・鉢・高杯・器台などの一般的器種であった。

遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、切断された鉄細片など、また石槌や鉄床石(かなとこいし)、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。120点を越える鉄製遺物が発掘され、そのうち70点以上が弥生時代の建物跡から出土。鉄鏃などの小型の製品とともに板状・棒状の鉄片や裁断片などの鉄素材が多数出土し、鍛冶作業が行われていたことを示している。また、竪穴建物跡SH-303からは大型鉄製品の板状鉄斧が発掘された。鉄斧は長さ17.9cm、厚さ1.3cm、刃部幅4.9cm、基部幅が3cm、重さ約263g。基部が狭く刃部にかけて広がるバチ型をしている形状と、両側面から丁寧な鍛打が施されている製作技法などの特徴から、国内で製作されたものではなく朝鮮半島南部で製作された可能性が高いと考えられている。



『魏志倭人伝』には倭国大乱とある。出雲や吉備、または九州の勢力が、北淡路を拠点に、大和勢力と戦争をしていたのだろうか? それとも鉄器の交易をしていたのだろうか? または、天日槍一族と関係があるかもしれない円山川・市川・揖保川を使い日本海側と瀬戸内海を結ぶ鉄の道があったのかもしれない。淡路島は島なので、外部からの侵入に対して守るのには適していたのだろう。

鉄の時代が始まる前の青銅の時代。南淡路と出雲は銅鐸でつながっている。南あわじ市で発見された弥生時代前期末~中期初め(紀元前3~前2世紀)の松帆銅鐸7個のうち5号銅鐸が、島根県出雲市の荒神谷遺跡の6号と同じ鋳型で作られた兄弟銅鐸、また松帆3号は島根県雲南市の加茂岩倉遺跡の27号と兄弟銅鐸であることが分かっている。松帆5号の方が荒神谷のものよりも傷が少なく、先に作られた初期の鋳造の可能性が高いこともわかっている。銅鐸の複数を入れ子状態にする埋葬方法、近くで銅剣も見つかることなど、淡路と出雲では青銅器の扱いにも共通点が見られる。

朝鮮半島の鉄は出雲を経由して淡路に運ばれてきたのではないかと思う。

五斗長(ごっさ)は5斗しかお米がとれない痩せた田んぼという意味。5斗収穫できたら長(おさ)になれたとか。1斗は18リットルだから、5斗は90リットルになる。1斗=10升=100合だから、5斗は500合のお米になる。五斗長は農耕に携わっていない鉄工房の技術職の人への給与の額だったのかもしれない。

垣内(かいと)は塀や柵で囲われた場所の意味。垣内には、交易のための物資を一時的に保管しておく場所の意味があるかもしれない。

弥生時代の高地性集落があることは以前から知られていたが、市町村合併をするにあたり、どこにあるのか場所の特定が行われたが、発掘まではされなかった。遺跡発掘に至った経緯は、ここにもともとあった古い溜池の堰堤が崩壊し決壊してしまい、棚田の田んぼが流されてしまった。それで、その田んぼを修復するための工事をするにあたり、発掘調査を行ったところ、この遺跡が偶然見つかったのだという。








2017年1月20日金曜日

植物の生き方を理解するために


◆植物の種子は自分が落ちる場所、芽吹く場所を選べているだろうか?ほぼ選べてはいないだろう。

植物は周囲の環境が悪くても、他の場所へ移動することもできない。

よって植物は、周囲の環境に対してかなり柔軟な対応ができるようになっている。種子が芽吹くとき、まず根が出る。その根からは髪の毛よりも細い根毛が四方八方に無数に出る。この根毛はセンサーのような役割をしている。いったい自分がどのような所で芽吹いたのか?周囲の情報を集め、環境を読み解き、自分がその場で生きぬくための人生設計をしている。

温度は、湿度は、土の固さは、ミネラルなどの栄養素は足りているのか、どのような微生物がいるのか? それらは味方なのか? 敵なのか? そういうことを感じながら、そして考えている。そして自分の中にある先祖から受け継いだ膨大なDNA情報を活用し、生き方を、生き抜く方法を考えているのである。


◆右側は1985年3月17日から同年9月16日まで開催された『つくば科学万博 85』のテーマ館にて、「協和株式会社」さんが展示された「水気耕栽培(ハイポニカ農法)」のトマトの巨木。1株で1万7千個のトマトをみのらせた。

協和株式会社代表の野沢重雄氏は、1970年より、植物の潜在能力に注目し、植物の生長を障害する要素をすべて取り除き、植物が生育するのに最適な環境を人工的に作り出すことで、植物の能力を最大限に発揮させることに成功した。植物はもともと海で生まれたので、陸上の土壌というのは植物にとっては、実は栄養が吸収しにくい環境なのではないかという考えの基に、酸素と栄誉分をバランスよく含んだ溶液で水耕栽培した。

その栽培方法は、土を使わない。種から育てる。流速を与え、養液を循環させる。水を循環させる過程で、空気(酸素)を混入する。作物や成長時期に関わらず、同一組成、同一濃度の肥料を投与。根を自由にどこまでも伸ばさせ、植物のもつ潜在能力を最大限まで引き出させることで多収穫を実現。

◆左は、2005年末。兵庫県相生市の歩道脇のアスファルトの隙間に生えた大根。「ど根性大根・だいちゃん」と名付けられマスコミに取り上げられた。その後、ど根性ナス、ど根性ミカンなど、各地で相次いでど根性野菜が報道された。

ど根性大根は同年11月に何者かによって上半分が折られ、持ち去られてしまう。そのことがニュースで流されると、数日後、上部が元の生えていた場所に戻されているのが見つかり、相生市役所で子孫を残すべく「治療」が行われ、その甲斐あってど根性大根は一時は再生したが、1月に突如状態が悪化し、翌2006年2月から宝塚市の住化テクノサービスでクローン技術を使った採種措置を受けた。同年6月、培養苗が相生市に返還された。ど根性大根のクローンは、地元学校の給食で食べられた。

◆肥料を全くやらなくても野菜は育つという「無施肥栽培」というのがある。ど根性大根が、無施肥でも、立派に育っていることを考えると野菜を「無施肥栽培」するという方法は可能なのだろう。植物は、どこに種子が落ちるのかを自分で選べないので、芽生えたところの環境に柔軟に耐えることができるということだろう。

「無施肥栽培」を提唱する方の多くが、無施肥でも育つ、その根拠として「自然の森には、誰も肥料をやらないのに、木々は立派に健康に育っている。」というたとえを使う。

しかし、この言葉は、もともと「有機農業」という言葉の生みの親であるアルバート・ハワードの言葉なのではないだろうか? ハワードは植物の生き方を森に学んだ。森は落ち葉を落として、自らの根付く大地を肥やしている。草原も同じで、イネ科の1年草は秋なると倒れて次の世代のための肥料となる。このことからハワードは有機物を活用した農業=堆肥を積極的に使うことで、連作障害がない、病害虫に負けない、生産力の落ちない持続可能性の高い農業生産が可能になると考え実践した。日本の有機農業もハワードのオーガニク・ファーミングを日本語に訳した言葉である。

「無施肥農法」というのは、おそらく日本で独自に進化してきた農法であるといえる。

この農法の背景には、日本の肥料の使用量が非常に多いということに対する「懸念」があるのだと考えられる。肥料がたくさん使用できるというのは、それだけ豊かな国であるということがいえる。世界には肥料が欲しくても購入できない国の方が多い。つまり肥料が自国で作られていないので手に入れることが困難な国の方が、世界には多い。

そのような中、日本は経済的に恵まれ、肥料についても種類も多く、わりと自由に購入できる環境がある。また、日本は人口が1億2千万人と、世界でも10番目に人口が多い国で、自国内に食べる人が多い国であったこともあり、日本の農業は発展してきた。食べる人が多いということが食べものをつくる産業が発展するには欠かせない要素である。

隣の国である韓国で化学肥料・農薬の使用量が日本より多いのは、日本の技術を学んでいるからだといわれている。

欧米での「有機農業」のきっかけは、地力の衰退により、農業を続けていくことが困難になったこと。解決方法として、堆肥や腐植などを土壌に混ぜて地力の回復を図った。有機物を用いた持続可能性の高い農業生産技術として「有機農業」が広まった。

日本の「有機農業」のきっかけは、化学肥料や化学合成農薬が原因で起きる健康被害に端を発し、それらを使わない農業生産方式としてはじまった。その発展した究極が、自然にゆだねる栽培方法である「無施肥栽培」ということになるのだろう。

欧米では生態系保全と地力回復というエコロジーを出発点としているため社会を変える運動へと発展する。日本では安全・安心な食べものを求める消費者運動が中心となって展開されたため、その運動が個人的でエゴイスティックなものとなってしまった。消費者に支えらえた農家の方は後継者が育っているのに、消費者の方は親世代から子ども世代への運動の移行ができず、多くの運動が1世代で衰退してしまった。
ハワードの「オーガニック・ファーミング」を「有機農業」という言葉に翻訳し、日本有機農業研究会を立ち上げ、日本における有機農業をはじめた一楽輝雄先生は、戦後の民主主義社会の中で、農業の持続可能性を求めて農協をつくった人でもある。日本において有機農業が本格的にはじまる、そのきっかけとして伝わっている事件は、1971年に厚生省が国会で「農薬によって母乳が汚染されていること」を認めたことが大きいと言われている。母乳汚染の実態は、厚生省が調査した480例の母親中、β-BHCとDDTは100%で検出され、ディルドリンは77.3%で検出されたというもの。この事実を受けて一楽照雄先生は「母乳を汚染するような農薬を農家は使うべきでなく、母乳を汚染するような農薬を売ることやめられない農協は、本来の農協の働きをしていない。」と嘆き、農協の再生と農協の未来のために新しい農業を提案したそれが有機農業であった。

有機農業と消費者運動が結びつくきっかけとなったのは、1974年10月14日から1975年6月30日まで朝日新聞に連載された有吉佐和子さんの『複合汚染』と考えらえている。すでに水俣病や四日市ぜんそくという公害病が知られていたが、『複合汚染』では、それらを地域のバラバラの問題と捕えるのではなく、すべての人に関わる自然生態系全体の問題として捕えている。小説の中では、化学物質についてあれも悪いこれも悪いといって、どんどん批判するだけで、何も解決方法が示されなかった。「パンドラの箱を開けるからには、最後には希望を残すべき」との非難を受けて、有機農業という希望を書いたといわれている。『複合汚染』には「理想的な農家の経営の姿は5ヘクタールの土地を持って、乳牛1~2頭、豚3匹、鶏や山羊数羽を飼育し家畜の餌は自給。田畑の堆厩肥も自給して地力が回復すれば病虫害に農作物ができる。」と記されている。


人が生きていくには、食べていかなければならない。食べていくためには農産物を確実に生産する必要がある。また、真に健康を求めるなら、健康を守るために必要な野菜の栄養価というものを真剣に考えていかなければならないだろう。

「無施肥栽培」は、肥料すら入れないのだから、土壌に対して危険なものが入る余地がない。何も入れていないのだから、究極に安全で安心なのかもしれない。しかし、収穫し続ければ、「質量保存の法則」に従って、土壌の栄養成分は畑から持ち出される一方で、収穫した分だけ、土壌は痩せていくだろう。未来のどこかの時点では、「植物のどんなところでも生きていける力」も限界に達することだろう。

◆持続可能な農業生産の手法を求めていく必要がある。

かつて日本はたぐいまれなる、とても豊かな国であった。だから個々の人間は、自分の思うがままに、自由に好き勝手にやっていけたのだろう。しかし、これからはそうはいかないかもしれない。人間は生きていくためにもっと、人間同士が助け合う必要があるのではないだろうか?

また、農地という食を得るための人類の財産を、わたしたちの代で食いつぶしてしまわないように、次の世代に良好な状態で、受け継いでいく必要があるのではないだろうか。