徳川家康公の孫であり水戸の徳川光圀公の実兄にあたる賴重公は法然上人を追慕して浄土宗に帰依し、高松入国ののち、寛文8年6月(1668年)竹井葵庵を奉行として3年の歳月を費やして三十ニ門、二十余宇の仏閣僧房を建立。法然上人自作の阿弥陀仏および上人の真影を本堂に安置し、また上人墓と松平家の墓所を山頂に築いて「般若台」と名づけ、檀下に来迎堂をもうけて弘法大帥自作の阿弥陀如来ならびに二十五菩薩を祀り、不断常念仏会を行わせた。
「二河白道」とは、地獄から極楽へ向かう細い細い一本道。一本道の右の河は貪りや執着の心がうずまく水の河。左の河は怒りや憎しみが燃え上がる火の河。盗賊や獣の群れも同じく欲を表して追いかけてきている。東岸からは釈迦の「逝け」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ」という声がする。 この喚び声に応じて人びとは白い道をとおり西岸にたどりつき、悟りの世界である極楽へ往生を果たすというもの。法然寺の参道は「二河白道」を模している。
参道の脇には十王堂がある。中をのぞくと閻魔様と冥界の十王様と奪衣婆がこちらをにらんでいる。人は死ぬと、49日の間、7日ごとに閻魔様と冥界の十王様によって生前の罪が裁かれるのだという。49日の判決が下されるまでは、人の魂は家の周りを浮遊しているといわれている。
初七日には泰広王(不動明王)が書類審査。
ニ七日には初江王(釈迦如来)が三途の川のほとりで裁判。
三七日には宋帝王(文殊菩薩)が邪淫の業についての審査。
四七日には五官王(普賢菩薩)が計りで罪の重さを量る。
五七日には閻魔王(地蔵菩薩)が水晶の鏡で生前の業績をつぶさに映し出し、裁きを申し渡す。
六七日には変成王(薬師如来)が五官王の計りと閻魔王の鏡で、生前の功徳を再審査。
七七日には太山王(薬師如来)が善因・悪縁を審査、判決の確定。
裁判の結果、地獄や餓鬼道に落ちた者も、残された遺族が功徳を積むことで再審査を受けることができる。百日には平等王(観世音菩薩)が、一周忌には都市王(勢至菩薩)が、三回忌には輪転王(阿弥陀如来)、七回忌には華花王が、十三回忌には祇園王が三十三回忌には法界王が再審査を行うといわれている。
参道で振り返ると見返り地蔵堂が見える。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世には仏が不在となってしまうため、その長い長い救いのない時代の間、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六道を輪廻する衆生を救うのが地蔵菩薩であるとされる。阿弥陀菩薩の「来たれ」という声に背を向けると、そこには地蔵菩薩の救いがあるという演出である。
参道をゆくと、ベンガラ瓦の黒門とよばれる極楽の入口がある。黒門をくぐると、極楽浄土を模した法然寺がある。
法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として讃岐国に流罪となった。讃岐国での滞在はわずか10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現在の香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。
なぜ法然は流刑となったのか?
元久2年(1205年)、奈良興福寺の衆徒が法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に「興福寺奏状」を提出した。
奏状は、専修念仏を非難する理由として具体的で詳細な「9か条の失」を掲げている。
①「新宗を立つる失」正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てること。
②「新像を図する失」専修念仏の徒のみが救済されるという、根拠に乏しい図像を弄すること。
③「釈尊を軽んずる失」阿弥陀如来のみを礼拝して仏教の根本を説いた釈迦を軽んずること。
④「万善を妨ぐる失」称名念仏だけを重んじて造寺造仏などの善行を妨害すること。
⑤「霊神に背く失」八幡神や春日神など日本国を守護してきた神々を軽侮すること。
⑥「浄土に暗き失」極楽往生にまつわる種々の教えのなかで特殊で偏向した立場に拘泥すること。
⑦「念仏を誤る失」さまざまな念仏のなかで、もっぱら称名念仏に限って偏重すること。
⑧「釈衆を損ずる失」往生が決定したなどと公言して悪行をはたらくことをおそれない不心得な念仏者が多いこと。
⑨「国土を乱る失」国を守護すべき仏法の立場をわきまえず、正しい仏法のあり方を乱してしまうこと。
①②⑥は法然に対する直接の非難であるが、法然に対し、その行動の原因となっている専修念仏宗義の一部を見直し貰うように朝廷へ働きかけることが目的であったとする。むしろ攻撃対象は、法然その人ばかりではなく、法然に帰依した「無智不善の輩」に対して向けられている。③④⑤⑦のように専修念仏の徒は念仏以外のいっさいの信仰を否定する傾向が顕著であり、⑧にみられるように、極端な例では、罪業深き悪人でさえ救済されるのであるから、戒律や道徳は無視してよいと考える狂信的な人びとを含んでいたという。
奏状はさらに、浄土宗の教えは京都周辺ではまだ穏やかなものだが、北陸地方や東海地方などではさかんに破戒がおこなわれていると訴えている。これは①⑤⑨で主張しているように、つねに国家と結びつき、「王法すなわ仏法」の立場に立って鎮護国家の思想を前面に打ち出していた既成の教団にとって強い危機感を生じさせるものであった。ここには、八宗が並んで国を護ることが日本仏教のあるべき姿であるという主張と、すべての経典・経論を見わたしたうえで、あらゆる立場に対しそれぞれ得るところありとするような教学大系の保持が尊重されるべきであり、特殊な教説を選択してそこに固執するという信仰姿勢は容認できない異端の説であるという主張がみとめられる。
この奏状によって法然は流刑になった。というより翌年に起きた下記の事件が直接の決め手となったという。
後鳥羽上皇が寵愛していた女官に19歳の松虫姫と17歳の鈴虫姫の姉妹がいて、この両姫は、法然上人やその弟子から念仏の教えを拝聴し感銘され、いつしか仏門に入りたいと願うようになり、建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中に秘かに京都小御所を忍び出て、法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた「東山鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞う。最初、両人は出家を認めませんでしたが、「哀れ憂き この世の中にすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき」という両姫のお詠に感銘され、出家を許します。熊野から帰ってきた後鳥羽上皇は激怒し、遵西・住蓮を斬首の刑にし、法然を流罪にした。
その後、両姫は法然の弟子の勧めで、瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防に移り住み念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられている。
貴族など身分の高い人に独占さえていた仏教をはじめて庶民のものにした法然の宗教改革は、既存の国家と太く結ぶ付いていた宗教者からは脅威に思えたのかもしれない。
鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された法然は立ち寄った那珂郡小松荘(現在のまんのう町)に生福寺を建立する。時は流れ、戦乱の中で生福寺は荒れ果ててしまった。それを江戸時代の始めに移築、再建したのが法然寺である。そこには「極楽」が再現された。
法然寺の仏像は京都の仏師によるものであると考えられている。三仏堂には阿弥陀菩薩・釈迦如来・弥勒菩薩の三尊が安置されているが、阿弥陀と弥勒の台座裏には墨書で「室町通一條上ル福長町」に住まう大仏師吉野右京藤原種次により、寛文13年9月(1673年)に造立されたものであることが分かっている。仁王門の金剛力士像は京仏師の「清安浄夢」とその弟「清水吉左衛門」を中心に製作が進められていることが解体修理のときに発見された墨書から分かっている。そして金剛力士像の完成は延宝2年(1674年)であったという。法然寺の伽藍は3年で完成したといわれているが、金剛力士像は伽藍完成から4年後のことであった。
貞享2年(1685年)開版の京の職人一覧『京羽二重』には、25名もの大仏師が記載されている。そこには「吉野右京」の名はあるが、「清安浄夢」の名前はない。