2017年1月24日火曜日

海を見下ろす丘にある弥生の鉄器工房遺跡






五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期初め(西暦20~30年頃)から弥生後期末(西暦200年頃)まで、営まれた国内最古で、かつ最大級の鍛冶工房村遺跡。

海岸から約3km入った標高200mの播磨灘を見下ろす南北の尾根筋の西面から東西に延びる枝尾根上に南北約50m・東西約500mの範囲で約170年間にわたり継続的に維持された集落遺構。23棟の竪穴住居のうち13棟に鍛冶遺構がある。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見されている。

この遺跡で一番古いSH-204は石器の工房と考えられている。その後、鉄器の鍛冶工房へ移って行ったと考えられている。



約170年間で5期にわたり 2~3棟の鍛冶工房が枝尾根上を移動しつつ維持された。 この建物跡は、通常の集落と異なり、生活の痕跡は見られず、鍛冶工房に特化した高地性集落であったと考えられる。6キロほど離れた場所にある舟木遺跡は、現在発掘中であるが、その面積は40ヘクタールほどあると考えられている。近くにある舟木石上神社には、巨石の磐座がある。淡路島北部の弥生の遺跡は、弥生中期(紀元前)は少なく。五斗長垣内遺跡が営まれた時代と同じ弥生後期になるとたくさん営まれ、五斗長垣内遺跡が営まれなくなる庄内期になるとぐんと少なくなる。淡路北部の弥生後期の集落は五斗長垣内遺跡を中心に栄えていたといえるかもしれない。



弥生土器の量は土器片でコンテナ約200箱分が出土。小型土器・絵画土器を含む壺・甕・鉢・高杯・器台などの一般的器種であった。

遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、切断された鉄細片など、また石槌や鉄床石(かなとこいし)、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。120点を越える鉄製遺物が発掘され、そのうち70点以上が弥生時代の建物跡から出土。鉄鏃などの小型の製品とともに板状・棒状の鉄片や裁断片などの鉄素材が多数出土し、鍛冶作業が行われていたことを示している。また、竪穴建物跡SH-303からは大型鉄製品の板状鉄斧が発掘された。鉄斧は長さ17.9cm、厚さ1.3cm、刃部幅4.9cm、基部幅が3cm、重さ約263g。基部が狭く刃部にかけて広がるバチ型をしている形状と、両側面から丁寧な鍛打が施されている製作技法などの特徴から、国内で製作されたものではなく朝鮮半島南部で製作された可能性が高いと考えられている。



『魏志倭人伝』には倭国大乱とある。出雲や吉備、または九州の勢力が、北淡路を拠点に、大和勢力と戦争をしていたのだろうか? それとも鉄器の交易をしていたのだろうか? または、天日槍一族と関係があるかもしれない円山川・市川・揖保川を使い日本海側と瀬戸内海を結ぶ鉄の道があったのかもしれない。淡路島は島なので、外部からの侵入に対して守るのには適していたのだろう。

鉄の時代が始まる前の青銅の時代。南淡路と出雲は銅鐸でつながっている。南あわじ市で発見された弥生時代前期末~中期初め(紀元前3~前2世紀)の松帆銅鐸7個のうち5号銅鐸が、島根県出雲市の荒神谷遺跡の6号と同じ鋳型で作られた兄弟銅鐸、また松帆3号は島根県雲南市の加茂岩倉遺跡の27号と兄弟銅鐸であることが分かっている。松帆5号の方が荒神谷のものよりも傷が少なく、先に作られた初期の鋳造の可能性が高いこともわかっている。銅鐸の複数を入れ子状態にする埋葬方法、近くで銅剣も見つかることなど、淡路と出雲では青銅器の扱いにも共通点が見られる。

朝鮮半島の鉄は出雲を経由して淡路に運ばれてきたのではないかと思う。

五斗長(ごっさ)は5斗しかお米がとれない痩せた田んぼという意味。5斗収穫できたら長(おさ)になれたとか。1斗は18リットルだから、5斗は90リットルになる。1斗=10升=100合だから、5斗は500合のお米になる。五斗長は農耕に携わっていない鉄工房の技術職の人への給与の額だったのかもしれない。

垣内(かいと)は塀や柵で囲われた場所の意味。垣内には、交易のための物資を一時的に保管しておく場所の意味があるかもしれない。

弥生時代の高地性集落があることは以前から知られていたが、市町村合併をするにあたり、どこにあるのか場所の特定が行われたが、発掘まではされなかった。遺跡発掘に至った経緯は、ここにもともとあった古い溜池の堰堤が崩壊し決壊してしまい、棚田の田んぼが流されてしまった。それで、その田んぼを修復するための工事をするにあたり、発掘調査を行ったところ、この遺跡が偶然見つかったのだという。








2017年1月20日金曜日

植物の生き方を理解するために


◆植物の種子は自分が落ちる場所、芽吹く場所を選べているだろうか?ほぼ選べてはいないだろう。

植物は周囲の環境が悪くても、他の場所へ移動することもできない。

よって植物は、周囲の環境に対してかなり柔軟な対応ができるようになっている。種子が芽吹くとき、まず根が出る。その根からは髪の毛よりも細い根毛が四方八方に無数に出る。この根毛はセンサーのような役割をしている。いったい自分がどのような所で芽吹いたのか?周囲の情報を集め、環境を読み解き、自分がその場で生きぬくための人生設計をしている。

温度は、湿度は、土の固さは、ミネラルなどの栄養素は足りているのか、どのような微生物がいるのか? それらは味方なのか? 敵なのか? そういうことを感じながら、そして考えている。そして自分の中にある先祖から受け継いだ膨大なDNA情報を活用し、生き方を、生き抜く方法を考えているのである。


◆右側は1985317日から同年916日まで開催されたつくば科学万博 85』のテーマ館にて、「協和株式会社」さんが展示された「水気耕栽培(ハイポニカ農法)」のトマトの巨木。1株で17千個のトマトをみのらせた。

協和株式会社代表の野沢重雄氏は、1970年より、植物の潜在能力に注目し、植物の生長を障害する要素をすべて取り除き、植物が生育するのに最適な環境を人工的に作り出すことで、植物の能力を最大限に発揮させることに成功した。植物はもともと海で生まれたので、陸上の土壌というのは植物にとっては、実は栄養が吸収しにくい環境なのではないかという考えの基に、酸素と栄誉分をバランスよく含んだ溶液で水耕栽培した。

その栽培方法は、土を使わない。種から育てる。流速を与え、養液を循環させる。水を循環させる過程で、空気(酸素)を混入する。作物や成長時期に関わらず、同一組成、同一濃度の肥料を投与。根を自由にどこまでも伸ばさせ、植物のもつ潜在能力を最大限まで引き出させることで多収穫を実現。

◆左は、2005年末。兵庫県相生市の歩道脇のアスファルトの隙間に生えた大根。「根性大根・だいちゃん」と名付けられマスコミに取り上げられた。その後、ど根性ナス、ど根性ミカンなど、各地で相次いでど根性野菜が報道された。

ど根性大根は同年11月に何者かによって上半分が折られ、持ち去られてしまう。そのことがニュースで流されると、数日後、上部が元の生えていた場所に戻されているのが見つかり、相生市役所で子孫を残すべく「治療」が行われ、その甲斐あってど根性大根は一時は再生したが、1月に突如状態が悪化し、翌20062月から宝塚市の住化テクノサービスでクローン技術を使った採種措置を受けた。同年6月、培養苗が相生市に返還された。ど根性大根のクローンは、地元学校の給食で食べられた。

◆肥料を全くやらなくても野菜は育つという「無施肥栽培」というのがある。ど根性大根が、無施肥でも、立派に育っていることを考えると野菜を「無施肥栽培」するという方法は可能なのだろう。植物は、どこに種子が落ちるのかを自分で選べないので、芽生えたところの環境に柔軟に耐えることができるということだろう。

「無施肥栽培」を提唱する方の多くが、無施肥でも育つ、その根拠として「自然の森には、誰も肥料をやらないのに、木々は立派に健康に育っている。」というたとえを使う。

しかし、この言葉は、もともと「有機農業」という言葉の生みの親であるアルバート・ハワードの言葉なのではないだろうか? ハワードは植物の生き方を森に学んだ。森は落ち葉を落として、自らの根付く大地を肥やしている。草原も同じで、イネ科の1年草は秋なると倒れて次の世代のための肥料となる。このことからハワードは有機物を活用した農業=堆肥を積極的に使うことで、連作障害がない、病害虫に負けない、生産力の落ちない持続可能性の高い農業生産が可能になると考え実践した。日本の有機農業もハワードのオーガニク・ファーミングを日本語に訳した言葉である。

「無施肥農法」というのは、おそらく日本で独自に進化してきた農法であるといえる。

この農法の背景には、日本の肥料の使用量が非常に多いということに対する「懸念」があるのだと考えられる。肥料がたくさん使用できるというのは、それだけ豊かな国であるということがいえる。世界には肥料が欲しくても購入できない国の方が多い。つまり肥料が自国で作られていないので手に入れることが困難な国の方が、世界には多い。

そのような中、日本は経済的に恵まれ、肥料についても種類も多く、わりと自由に購入できる環境がある。また、日本は人口が1億2千万人と、世界でも10番目に人口が多い国で、自国内に食べる人が多い国であったこともあり、日本の農業は発展してきた。食べる人が多いということが食べものをつくる産業が発展するには欠かせない要素である。

隣の国である韓国で化学肥料・農薬の使用量が日本より多いのは、日本の技術を学んでいるからだといわれている。

欧米での「有機農業」のきっかけは、地力の衰退により、農業を続けていくことが困難になったこと。解決方法として、堆肥や腐植などを土壌に混ぜて地力の回復を図った。有機物を用いた持続可能性の高い農業生産技術として「有機農業」が広まった。

日本の「有機農業」のきっかけは、化学肥料や化学合成農薬が原因で起きる健康被害に端を発し、それらを使わない農業生産方式としてはじまった。その発展した究極が、自然にゆだねる栽培方法である「無施肥栽培」ということになるのだろう。

欧米では生態系保全と地力回復というエコロジーを出発点としているため社会を変える運動へと発展する。日本では安全・安心な食べものを求める消費者運動が中心となって展開されたため、その運動が個人的でエゴイスティックなものとなってしまった。消費者に支えらえた農家の方は後継者が育っているのに、消費者の方は親世代から子ども世代への運動の移行ができず、多くの運動が1世代で衰退してしまった。
ハワードの「オーガニック・ファーミング」を「有機農業」という言葉に翻訳し、日本有機農業研究会を立ち上げ、日本における有機農業をはじめた一楽輝雄先生は、戦後の民主主義社会の中で、農業の持続可能性を求めて農協をつくった人でもある。日本において有機農業が本格的にはじまる、そのきっかけとして伝わっている事件は、1971年に厚生省が国会で「農薬によって母乳が汚染されていること」を認めたことが大きいと言われている。母乳汚染の実態は、厚生省が調査した480例の母親中、β-BHCとDDTは100%で検出され、ディルドリンは77.3%で検出されたというもの。この事実を受けて一楽照雄先生は「母乳を汚染するような農薬を農家は使うべきでなく、母乳を汚染するような農薬を売ることやめられない農協は、本来の農協の働きをしていない。」と嘆き、農協の再生と農協の未来のために新しい農業を提案したそれが有機農業であった。

有機農業と消費者運動が結びつくきっかけとなったのは、1974年10月14日から1975年6月30日まで朝日新聞に連載された有吉佐和子さんの『複合汚染』と考えらえている。すでに水俣病や四日市ぜんそくという公害病が知られていたが、『複合汚染』では、それらを地域のバラバラの問題と捕えるのではなく、すべての人に関わる自然生態系全体の問題として捕えている。小説の中では、化学物質についてあれも悪いこれも悪いといって、どんどん批判するだけで、何も解決方法が示されなかった。「パンドラの箱を開けるからには、最後には希望を残すべき」との非難を受けて、有機農業という希望を書いたといわれている。『複合汚染』には「理想的な農家の経営の姿は5ヘクタールの土地を持って、乳牛1~2頭、豚3匹、鶏や山羊数羽を飼育し家畜の餌は自給。田畑の堆厩肥も自給して地力が回復すれば病虫害に農作物ができる。」と記されている。


人が生きていくには、食べていかなければならない。食べていくためには農産物を確実に生産する必要がある。また、真に健康を求めるなら、健康を守るために必要な野菜の栄養価というものを真剣に考えていかなければならないだろう。

「無施肥栽培」は、肥料すら入れないのだから、土壌に対して危険なものが入る余地がない。何も入れていないのだから、究極に安全で安心なのかもしれない。しかし、収穫し続ければ、「質量保存の法則」に従って、土壌の栄養成分は畑から持ち出される一方で、収穫した分だけ、土壌は痩せていくだろう。未来のどこかの時点では、「植物のどんなところでも生きていける力」も限界に達することだろう。

◆持続可能な農業生産の手法を求めていく必要がある。

かつて日本はたぐいまれなる、とても豊かな国であった。だから個々の人間は、自分の思うがままに、自由に好き勝手にやっていけたのだろう。しかし、これからはそうはいかないかもしれない。人間は生きていくためにもっと、人間同士が助け合う必要があるのではないだろうか?

また、農地という食を得るための人類の財産を、わたしたちの代で食いつぶしてしまわないように、次の世代に良好な状態で、受け継いでいく必要があるのではないだろうか。













2017年1月17日火曜日

イノシシにのる摩利支天


摩利支天は、日天の眷属。日天はバラモン教の太陽(日輪)を神格化した神で、後に仏教に取り入れられ、観世音菩薩の化身といわれうようになった。

摩利支天は陽炎を神格化した神。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。

日本では中世以降に信仰を集めた。戦場の護神として武士や忍者が信仰し、江戸時代には蓄財福徳の神として大黒天や弁才天とともに人気があった。

楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。また、毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いた。山本勘助や前田利家や立花宗茂といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられている。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されている。

日本の山岳信仰の対象となった山のうちの一峰が摩利支天と呼ばれている場合があり、その実例として、木曽御嶽山(摩利支天山)、乗鞍岳(摩利支天岳)、甲斐駒ヶ岳があげられる。

「日本三大摩利支天」は①金沢の宝泉寺、②東京の上野アメ横の徳大寺、③京都建仁寺の塔頭禅居庵である。真言宗、日蓮宗、臨済宗と宗派はバラバラで、像の形もバラバラだが、それぞれに摩利支天に関する独自の由緒がある。

摩利支天は、インドの暁の女神であるウシャスであるともいわれている。摩利支天は、インドの暁の女神であるウシャスであるともいわれている。

『リグ・ヴェーダ』はインドの古い古いヴェーダ聖典群のうちのひとつ。口伝での成立は紀元前15世紀から紀元前13世紀と考えられている。「リグ」は「讃歌」、「ヴェーダ」は「知識」を意味している。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。讃歌の対象となった神格の数は非常に多く、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。

ウシャスは、インド神話における「暁紅の女神」で、夜明けの光を神格化したもの。天空神ディヤウスの娘で、夜の女神ラートリーの妹。太陽神スーリヤの母あるいは恋人といわれる。『リグ・ヴェーダ』に登場する女神の中では最も多くの讃歌を持ち、独立讃歌は20を数え、ラートリーのほかに、スーリヤ、アグニ、アシュヴィン双神と結びつけられている。

美しい女神であるウシャスは、太陽神スーリヤの先駆であり、闇を払い、あらゆる生命を眠りより覚まし、活動を促す。また、ウシャスは赤い馬もしくは牛の牽く車に乗り、後を追うスーリヤが彼女を抱きしめると消滅するが、翌朝には、天の法則(リタ)に従い、方角を誤らず、再び美しい肌を現すとされる。

摩利支天(マーリーチー)は、ヴィシュヌのへそに芽生えた蓮から生まれた創造神ブラフマー(梵天)の子だといわれる。イラン神話の英雄神ウルスラグナ(バフラーム)もまたヴィシュヌのようにイノシシに姿を変えて光明神ミスラを先導したといわれている。

摩利支天の持物(アトリビュート)は針と糸であるとされる。『大摩里支菩薩経』によると悪口や讒言を縫い込めるための道具であると説かれており、そこには懲罰者としてのイメージが投影されている。弓矢は暗黒を引き裂いて光明をもたらす象徴とも解釈されている。

「猪突猛進」と言われるが、それは一直線に突き進む意志の強さを意味する。

猪の肉は、万病を防ぐと言われ、無病息災の象徴とされている。

猪には雨が降るのを予知する力があるといわれている。


2017年1月3日火曜日

魚の網をのがるゝが如し・大吉


厄年ということで、日和佐の薬王寺に厄落しに行く。

醫王山・無量寿院・薬王寺という。神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩が建立した。弘仁年6(815年)、弘法大師42歳のとき、平城上皇の勅命によって本尊厄除薬師如来を刻んで開基した。嵯峨上皇、淳和天皇は勅使を使わされて厄除の祈誓を願われ、承久の乱のあと阿波へやって来た土御門上皇が嘉禄2年(1226年)に皇居として住まわれた。後嵯峨天皇は寛元元年(1243年)に伽藍の再建をして、仁助親王が落慶の法筵に入れられたと伝えられている。


薬王寺に参拝するためには、大量の1円玉がいる。仁王門の右側にある瑠璃殿の事務所で両替してもらえる。


厄を落とすために、厄年の数と同じ段数の石段にお金を落しながら登っていく。女厄坂33段と男厄坂42段がある。急な石段を、そこにたくさん落とされたお金を踏みながら登っていく。お金の落ちるチリン・チリンという音。ザクザクというお金を踏む音。厄が落ちていく感覚というのが体感できる。

お寺の歴史によると文化5年(1808年)に現在の厄坂に改修が完了したという。1808年とはどのような時代だったのだろう。

1770~80年頃に田沼意次が政権を担い、産業・商業を振興させ、貨幣経済が発達し、庶民の識字率も高まり文化教養への興味関心も高まていた。

ところが1783年6月3日にアイスランドのラキ火山が噴火、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山のが1783~85年にかけて噴火し、噴煙が成層圏まで届き、北半球は全域が寒冷化。さらに日本では、1783年4月13日(天明3年3月12日)に岩木山が噴火。8月3日(7月6日)には浅間山が噴火し、東北関東に火山灰を降らせ、これにより天明の大飢饉が起きる。飢饉は1782年(天明2年)~1788年(天明8年)からの6年も続く。杉田玄白が『後見草』にて伝えるところによると、全国で推定2万人の餓死者を出している。

天明の大飢饉から立ち直るために松平定信の寛政の改革(1787~93年)が行われる。1808年はようやく暮らしが立ち直ってきた時代。そして四国遍路が庶民の間でブームになり始めた時代。

四国遍路の88ヵ所のひとつひとつのお寺の配置がしっかりと描かれている『四国遍礼名所図会』は1800年(寛政12年)3月20日~5月3日まで、閏4月を含む73日間の九皋主人の遍路記を、翌年1801年(享和元年)河内屋武兵衛蔵が書写したものが現存している。これに記載されている薬王寺の絵図には、すでに今のように本堂へまっすぐ登る石段が描かれている。

『四国遍礼名所図会』が作られた1800年前後より、現存する古い遍路日記がたくさん存在しはじめる。

1802年の『四国道中手引案内』には「札所の寺にて御印をもらふなり尤も印料として12銭或いは6銅又は3文置くべし」とある。最古の納経帳は1765年(明和2年)のもの。

1802年(享和2年)に十返舎一九による『東海道中膝栗毛』がこの年から刷りはじめられる。これがきっかけというわけではないだろうが、この頃からお伊勢さん・金毘羅さん・信州善通寺などへ庶民が詣でることが流行りはじめる。

1830年には阿波国が発信地となる伊勢お蔭参りが起こる。参詣するときに柄杓をもっていき、それを外宮の北門に置いていくのことが流行った。伊勢神宮の参詣者の数は427万6500人で、1850年当時の日本総人口は3228万人と推計されているので、日本人口の13%の人が伊勢神宮に参詣したことになる。

薬王寺の石段の改修は、御利益を求めて参拝者が増えてきた時期といえる。

1854年12月24日(嘉永7年11月5日)に安政の南海大地震が発生する。ペリーの黒船来航を期に元号が改元されて、嘉永7年は1月1日までさかのぼって安政元年となるため、安政の南海大地震という。この年、嘉永7年6月15日(1854年7月9日)に伊賀上野地震があり、南海大地震の32時間前には東海東南海地震が発生。2日後(約40時間後)に豊予海峡で地震。翌年の安政2年10月2日(1855年11月11日)には江戸で地震。、1858年4月9日(安政5年2月26日)に飛越地震がおこる。

安政の南海大地震で土佐高知は大きな被害を受け、四国遍路の土佐入国を禁止。安政4年に丹後国から巡礼に来た吉岡無量居士夫妻が残した納経帳には、「土州十七ヵ所遥拝処」と記したベージがあり、高知へ入ることができず、高知の17ヵ所の納経と朱印を遥拝所で受けている。この遥拝所は薬王寺にあったのではないかと考えらえている。

1868年に江戸時代が終わり明治となる。


薬王寺はその名の通り、薬の王様。



薬王寺はいわば厄除けテーマパークである。お金を落としながら登る厄坂だけではなく、年の数だけ鐘を叩く「随求の鐘」というのもある。本来は仏舎利を納めた随求の塔の付属のもののようなのだけれど、これを年の数だけ叩けば、つまり鐘を鳴らせば厄が落ちるという。絵馬堂にある大香炉に線香を奉納して、その煙をあびる。これは浅草寺のスタイルと同じ、大香炉は昭和34年に、水産業の徳島喜太郎さんにより寄進されたものらしい。お正月は混雑防止のために一時的に退けられているが、年の数だけ香を搗く臼というのもある。亡くなった祖母はこういうアトラクションが大好きで、すべてに参加し、すべての仏様に1円玉を奉納していたのを思い出す。




薬王寺の本殿の横には肺大師という御堂がある。ここに湧いている湧き水は、瑠璃の水とよばれ、ラジウムを含んでいて肺の病気に効くという。大正初期に大阪衛生試験場でラジウムエマチオンの放射能の作用ある硫化水素泉であることが科学的に立証されているという。

薬王寺の門前にある薬王寺温泉の泉質は含硫黄・ナトリウム・塩化物冷鉱泉(低張性・弱アルカリ性・冷鉱泉)で、ラジウムは含まれていないようだ。この薬王寺温泉は徳島県で最初に営業許可をとった温泉という。

薬王寺の御詠歌は「皆人の病みぬる年の薬王寺 瑠璃の薬を與えまします」という。

瑠璃の水の瑠璃は、仏教世界の中心にそびえ立つ須弥山で産出される仏教の七宝という宝石のひとつと考えられている。無量寿経では「金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)」が仏教七宝といわれている。

瑠璃は「ラピスラズリ」のこと。主にペルシャで産出され、日本には中国を経て伝わる。ヨーロッパにはアフガニスタンから「海路」で運ばれたため、ラピスラズリを原料とする青色顔料は「ウルトラマリン」と呼ばれている。海の町である日和佐に瑠璃色がよく似合う。


寿老人様の撫で仏。中国の仙人で、長寿の神様であり、自然との調和の象徴でもある。







薬王寺のシンボルというべき瑜祇塔は、昭和39年が弘法大師が四国八十八ヶ所の霊場を開創してからちょうど1150年に当たり、また、翌昭和40年が高野山開創1150年に当たるのでこれを記念して建立されたものという。

瑜祇塔とは「金剛峯楼閣一切瑜伽経」という真言密教の経典の内容を具現化したものという。高野山金剛峰寺の名前も、このお経から名づけられているという。お経の内容は、世界は天と地、陰と陽のような相反する2つのものが和合して万物が豊かとなり、そこに人間の労使が相寄って人間社会が平和になるという道理が書かれている。瑜祇とは、まさにヨガのことで、万物と人間の調和というようなことが大事だというようなことが書かれているらしい。





おみくじを引く。「魚の網をのがるるが如し・大吉」だそうだ。



伝説によると、日和佐はもともと和射という地名で、津波の大被害を受けて崩壊してしまっていたときに、弘法大師さんが来られて、東の浜から太陽が昇るのを見て、復興への希望を託して、地名を日和佐に改名したという。

弘法大師こと空海は宝亀5年(774年)生まれ、承和2年3月21日(835年4月22日)に61歳で入定している。弘法大師さんが生きている間に南海大地震は起こっていない。直近は仁和3年7月30日(887年8月22日)に起きている。

奈良時代は「和射」という地名であったことは、平城京跡から出土した木簡などから明らかなのだそうだ。

南の方、海陽町大里松原には、式内社の和奈佐意富曾神社(ワナサオウソ)がある。ワサという地名はこのワナサ神と関係があると思う。



2017年1月2日月曜日

しなねの森


















鳥のシャーマンの活躍した時代

●スサノオの3女神とアマテラスの5王子

海原を治めるように命じられたスサノオ(素戔嗚)は泣いてばかりで、海原を統治ようとしない。イザナギが理由を尋ねると母神であるイザナミ(伊邪那美)のいる根之堅洲国に行きたいというので、イザナギはの怒り、スサノオを追放する。追放されたスサノオは母の故地である出雲と伯耆の境目付近にある根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上る。その駈け上がってくる勢いがすざましいので、天照大神は弟が攻め入って来たのではと思い、武装して応対した。スサノオは身の潔白を晴らすため天の安河原でウケイ(誓約)という占いを行う。両者はお互いの身に着けていた剣と珠を交換し、それぞれ噛み砕いて吐き出すと、アマテラスの珠からは5人の王子が生まれ、スサノオの剣からは3人の姫が生まれた。

天の安河原のウケイでアマテラスの珠から生まれた5人の王子は稲魂に関係する。オシホミミは稲穂が長く垂れた様子、ホノニノギは穂が賑々しい様子、ホヒは稲の霊の意味、アメノヒコネは天の日子(太陽の子)とも言えるし「稲の根」の意味ともとれる。クマノクスヒは「隅の不思議な霊」という意味。

スサノオの剣から生まれた3人の姫、タキリ姫、タキツ姫、サヨリ姫である。この三女神は「たきりたつ」または「ほとばしる」という水の威力を表し、サヨリは霊力がそこに宿るという意味。稲を育てるために欠かせない水と風をつかさどる女神といえる。

北沢方邦著『古事記の宇宙論』平凡社新書2004年によると、オリオン座の三ツ星は「カラスキ」と呼ばれ、それはスサノオの剣で、シベリア高気圧が巻き起こす冬の暴風がやって来る北西を差している。冬を代表する星座であるオリオン座の三ツ星は天高く南中するとき、北西を差し、この冬の嵐を防いでいると見立てている。カラスキはスサノオの剣で、その三ツ星は天の安河原のウケイによってスサノオの剣から生まれた3人の娘、タキリ姫、タキツ姫、サヨリ姫である。

福岡県宗像市の宗像大社は、海上50キロ離れた沖ノ島(タキリ)、十数キロの中津島(サヨリ)、海岸の辺津宮(タキツ)の3つが正確に北西角に並んでいる。広島県の安芸の宮島の厳島神社も、本殿、拝殿、舞台、海中の鳥居の線が北西角に並んでいる。大分県の宇佐八幡神社も本宮と奥宮を結ぶ線が北西角にある。

江の島の辺津宮と中津宮が北西角であり、山頂の奥津宮と前二社は正三角形になっている。これは暴風雨を象徴する三つ巴紋を示している。

大阪の住吉神社は三つ星を祀っている。この三つの星は海の上の方、中の方、底の方の3つの神でもある。これはオリオン座が東の水平線からのぼるとき、三つ星が立てに並んでひとつづつ、水平線から昇ってくることを表している。

アマテラスの5人の王子はスバル星団に見立てられ、スバル星団の形が魂を象徴する勾玉の形の原型となったと考えられる。星座としては、まずスバル星団が東から昇り、それを追いかけて、オリオン座が昇ってくる。



●国譲り神話とアジスキタカヒコネ

国譲り神話には、アマテラスの珠から生まれた5人の王子が関係してくる。葦原の中つ国は大国主が統治していたが、これは将来的には、アマテラスの子孫が治めるべき国だと考え、オオクニヌシに国を譲るように迫る話。

はじめに使者に選ばれたのはオシホミミであるが、オシホミミは天の浮橋の上から覗いただけで、あまりにも騒がしい国なので無理だとあきらめてしまう。2番目に使者となったのは、ホヒであったが、ホヒはオオクニヌシの家来になってしまい3年たっても便りがない。

3番目の使者となったのが、天津国玉命の子である天若日子(アマノワカヒコ)で、アメノワカヒコには、天之麻古弓(アメノマカコユミ)と天之波波矢(アメノハハヤ)を与えて葦原の中つ国へ遣わした。アメノワカヒコはオオクニヌシの娘下照姫(シタテルヒメ)と結婚し、自分自身が葦原の中つ国の王になろうと考えた。

下照姫と結婚したことは、作戦なのか、謀反なのかわからないので、天照大神と高皇産霊神は、雉の鳴女(ナキメ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女(アメノサグメ)が、不吉な鳥だから射殺すようにと天若日子に勧め、天若日子は鳴女を射殺してしまう。鳴女を貫いた矢は、そのまま高天原にまで飛んで行った。高皇産霊神はその矢を見つけ「天若日子に邪心があるならばこの矢に当たるように」と呪文をして下界に落とすと、その矢は寝所で寝ていた天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまう。

夫の死を嘆く下照姫の泣き声は、天まで届き、天若日子の父である天津国玉神とその妻は、息子の死を知り、葬式に参加する。その葬式に天若日子とそっくりの人が現れる。それが味鋤高彦根(アジスキタカヒコネ)であり、下照姫の兄であった。

天若日子の両親は息子が生きていたと喜び、アジスキタカヒコネに抱き着くが、アジスキタカヒコネは死人と似ているとは汚らわしいと、天若日子の喪屋を切り倒し、蹴り飛ばす。下照姫は「天なるや、オトタナバタの項がせる、珠のミスマル、ミスマルに、穴珠はや、御谷ふた渡らす、アジスキタカヒコネの神ぞ」と歌い兄の名を顕わした。この歌は「夷振(ひなぶり)」つまり宮廷に伝えられた歌曲の一つであるという注釈がついている。

天若日子とアジスキタカヒコネは顔が同じということから同一神であり、秋になり冬になり生命活動が弱まったのが、春になって復活することを、天若日子の死と、アジスキタカヒコネの登場ということで表現したのではないかと考えらえる。

下照姫の歌は、「スバルを追いかけて昇ってくるオリオン座は2つの谷をまたぐほど大きい」という意味にとれる。春から夏にかけては天若日子。つまり稲魂として稲に入り、秋から冬はオリオン座として天にある剣として北西から吹く寒気を刺している。オリオン座のことをアジスキタカヒコネと考えるなら、下照姫はまさに下で照っているリゲルであり。アジスキタカヒコネは高いところで赤く輝くペテルギウスといえる。

●鳥のシャーマンが稲魂を運ぶ

『古事記』ではアジスキタカヒコネに対して、別名を迦毛大御神(カモノオオミカミ)としている。古事記において最初から大御神として呼ばれるのは、天照大御神とこの迦毛大御神の2柱だけである。カモは鳥のカモのことかもしれない。カモは冬鳥で、稲の収穫の頃にやってきて、春が来ると北へ帰っていく。カモは稲魂と関係がある鳥と考えられたのではないだろうか?

天若日子の葬式には8日8夜行われたが、その葬式にはたくさんの鳥が登場する。「喪屋を作りて、河雁を岐佐理持(キサリモチ)とし、鷺を箒持ちとし、翠鳥(カワセミ)を御食人とし、雀を確女(ウズメ)とし、雉を哭女(ナキメ)とし、各行い定めて、日八日八夜八夜を遊びき」とある。カワカリに料理を運ぶ役目。サギにホウキ持ち、これは清掃係りというよりは、もっと呪術的な意味があると考えられる。カワセミに料理を作る役目、スズメに米を搗く役目、キジに泣き女の役目を与えて、「遊ぶ」は古代においては「儀礼」であり、現在のような宴会といった感じではなかったのではないかと考える。

弥生時代、銅鐸の神事を司るシャーマンは鳥の扮装をしていたことが発掘調査から次第に明らかになってきている。






日本に稲作が普及し、狩猟採集の縄文時代から、定住農耕の弥生時代が始まる。弥生時代の名の由来は、現在、東京都文京区弥生2丁目の東京大学のある敷地から見つかった貝塚から出土した土器を「弥生式土器」と名付けたことによる。

奈良県の唐古・鍵遺跡は弥生時代を代表する遺跡で、この遺跡の発掘が、もう少し早ければ、弥生時代は「唐古・鍵時代」と呼ばれていたかもしれない。唐古・鍵遺跡の南東3キロには、邪馬台国かもしれないといわれている纏向遺跡がある。唐古・鍵遺跡はプレ邪馬台国かもしれない遺跡。唐古・鍵遺跡からは、銅鐸をつくった工房跡と考えられる遺跡が発掘され、格子状に柱を配置する総柱の大型建物跡も発掘されている。近接する河内・和泉・紀伊・摂津・近江の土器が出土しており、各地と交易交流を行っていたこともわかっている。内陸奈良でありながら、海の魚の骨も見つかっている。吉備や尾張の土器も見つかっている。

唐古・鍵遺跡では、土器に絵を描く風習があり、その絵から弥生時代、銅鐸を使い稲作に関する祭祀を司るシャーマンは鳥の扮装をしていたことがわかった。

邪馬台国かもしれないといわれている纏向遺跡の北西3キロにある唐古鍵遺跡のさらに北北西600mにある清水風遺跡は、唐古・鍵遺跡の衛星集落のひとつと考えらえている。時代は1世紀(弥生時代中期)まさに銅鐸の時代である。そこで鳥の扮装をしたシャーマンの線画が発見された。


大林太良編『日本の古代13・心のなかの宇宙』中央公論社昭和62年によると、佐賀県神埼郡神崎町の川寄吉原遺跡の銅鐸型土製品には、右手に戈、左手に盾、腰に剣を下げ、頭に鳥の羽根かざりをつけたシャーマンが、舌のついた銅鐸と三本の矢が刺さったイノシシみたいな動物を背景に描かれている。川寄吉原遺跡は吉野ヶ里遺跡のすぐ西にある遺跡である。


鳥のシャーマンは鉾と盾を持って、模擬戦闘のような踊りを舞ったと考えられている。これとスサノオの3女神は関係しているかもしれない。水と風は恵みをもたらすと共に、禍ももたらす。稲を育てる水と風。台風などの災害、冬の寒波をもたらす水と風。この善悪の2面を模擬戦闘によって戦わせ、善が勝ち、悪を抑えるという呪術的な舞が行われたのかもしれない。

また、豊作を祈る呪術、風水害や暴風雨を避ける呪術には、イノシシやシカが風の神への生贄にささげられていたのではないかと考えられている。この風習の名残は、諏訪大社に色濃く残っている。諏訪大社では三月酉の日に行われる御頭祭は、諏訪大社の上社の年中行事の中で一番重視されている神事で、かつては75頭の鹿の頭が生贄として奉納されていた。現在でも蛙狩神事という、蛙を生贄にする儀式が伝えらえている。

この諏訪大社の御頭祭りでは、神使の頭人が御杖に、銅鐸に似た鉄製の「さなぎ」という鈴をつけて、30ヵ所あるタタエとよばれる高木のある祭場を巡って神事を行う。これは銅鐸の時代の神事の姿を今に伝えているのではないかと考えられる。



稲魂は男神だから、女性のシャーマンが祀り、稲を育てる水と風の神様は女神だから、男性のシャーマンが祀るということではないかと考えることができる。

●事代主とタケミナカタの服従

国譲りの神話は、4番目の使者を選ぶことになる。稜威雄走神(イツノオハバリ)か、その子の建御雷神(タケミカツチ)を遣わすべき」となり。天之尾羽張(アメノオハバリ)は「タケミカツチを遣わすべき」と答えたので、タケミカツチに天鳥船神(アメノトリフネ)を副えて葦原の中つ国に遣わした。タケミカツチは出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣(トツカノツルギ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか?」と訊ねた。大国主神は「美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答える」と言い。タケミカツチが事代主に答えを迫ると事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れた。

タケミカツチが「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子のタケミナカタ(建御名方神)にも訊くよう言った。その間にタケミナカタがやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」とタケミカツチの手を掴んだ。すると、タケミカツチは手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。そしてタケミカツチはタケミナカタの手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、タケミナカタは逃げ出した。タケミカツチはタケミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。タケミナカタは逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。タケミカツチは出雲に戻り、大国主に再度訊ね。大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言った。大国主は出雲国の多藝志(タギシ)の小濱に宮殿を建てて、たくさんの料理を奉った。

事代主は「言を知っている」という意味で、託宣を司る神である。言とも事とも書くのは、古代において「言(言葉)」と「事(出来事)」とを区別していなかったため。

アマノオシホミミが浮橋の上から見下ろして、あまりにも騒がしい国なので無理だと言った。それは集落ごとにシャーマンが居て、そのシャーマンがそれぞれの託宣を下していたので、それぞれがそれぞれにバラバラのことを言って行っているという状態だろう。事代主はシャーマンの時代の象徴であり、それが隠れたことによって、祭事が統一され、中央集権の時代になったということを意味しているのではないだろうか?

事代主がひっくり返した船は、天の岩屋戸に隠れてた天照大神を連れ出すために天鈿女(アメノウズメ)が踊ったときに舞台として使ったウケフネをひっくり返したものと同じではないだろうか? 天鈿女は、ウケウネの上に立って、それを足で踏み鳴らして踊った。ウケフネは穀物をいれる入れ物で虫がつかないように楠木でつくられていたという。それを踏み鳴らすことは、大地に活力を与えるというような意味があると考えられる。

スサノオの横暴に恐れをなした天照大神は天の岩屋戸を開き中に入って戸を固く閉めて閉じこもった。太陽を失った葦原の中つ国は、ことごとく闇に包まれ、夜ばかりとなった。そこに無数の神の声が五月蠅(サバエ)のように満ちて、無数の禍が起きた。そのことは、それぞれのシャーマンがそれぞれにバラバラに託宣していた銅鐸の時代を意味している。それが天照大神が岩戸から出てきて、新しい時代になる。それは冬になって力を失った太陽に、新たに活力を与える儀式として新嘗祭のスタイルが確立したことを意味していると考えらえる。

もうひとりタケミナカタとは何なのだろうか? 銅鐸の時代の神事には2種類あって、ひとつは銅鐸を鳴らして水田に稲魂を播く神事。もうひとつが禍をもたらす風の神を模擬戦闘を行ってやっつけるという神事。タケミナカタのミナカタは宗像神と同じと考えられているので、タケミナカタは銅鐸の時代の禍をもたらす暴風雨の神であり、同時に稲の生長には欠かせない風と雨の神であったと思われる。

また、現在、タケミナカタが祀られている諏訪大社では、御柱祭りがおこなわれているが、柱を立てるのは外敵の侵入を防ぐ結界の意味ではないだろうか? そのように考えると、福岡の宗像神も国境で外敵の侵入を防ぐ結界の神の性格があり、両者は一致する。

タケミナカタは大国主と高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)との間の子とされている。大国主が沼河比売を娶るために交わした歌には鳥がたくさん出てくる。この物語は『古事記』には記載されているが、『日本書紀』には記載がない。

八千矛の 神の命は 八島国に 妻まきかねて 遠々し こしの国に かしこし女を ありと聞かして 麗し女を ありと聞こして さ婚ひに あり通はせ 太刀が緒も いまだとかず おすひをも いまだとかね おとめの 寝すや板戸を 押そぶらひ わが立たせれば 引こづらひ わが立たせれば 青山に ヌエは鳴きぬ さ野つ鳥 キギシはとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴くうれたくも 鳴くなる鳥か この鳥も うち止めこせぬ いしたふや 天馳使 事の語りごとも こをば

ヤチホコノカミ(大国主の別名)は、八島国のあちらこちらに妻をさがし、遠い遠い越の国に、たいへん賢い女性がいると聞き、たいへん美しい女性がいると聞き、「よばい(結婚を申し込むために夜に女性の家へ行くこと)」をしに通い、刀の紐もまだ解かず、上着もまだ脱がないまま、ヒメの寝ている窓の板戸を、押しゆすぶり、引きゆすぶり、立ちすくんでいる。そのうち、緑の山にはヌエが鳴き、野鳥のキジはさけび、ニワトリも鳴き出した。ああ、いまいましい鳴く鳥よ お願いだから鳴くのをやめさせてくれ、神につかえる使いの鳥が、大国主の歌を以上のように伝えております。という意味。

これに対して沼河比売は、

八千矛の 神の命 ぬえくさの 女にしあれば わがこころ 浦渚の鳥ぞ 今こそは わ鳥にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は な死せたまひそ いしたふや 天馳使 事の語りごとも こをば 

青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の えみ栄えきて たくづのの 白き腕 沫雪の わかやる胸を そだだき たたきまがなり 真玉手 玉手さしまき もも長に 寝は宿さむを あやに な恋ひきこし 八千矛の 神の命 事の語りごとも こをば

ヤチホコの神様 わたしは、しおれた草のような女です。わたしの心は、おちつかずにフラフラ飛ぶ水鳥のようです。今は、自分のことしか考えていない鳥ですが、でもいずれは、あなた様の鳥になりましようですから、どうぞ殺さないでください。神につかえる使いの鳥が、ヌナカワヒメの歌を以上のように伝えております。

緑の山に日が沈んだら 真っ暗な夜がやって来ますでも、あなたは、朝日のように さわやかにやって来てコウゾの綱のような白い腕、泡雪のような若く白い乳房を、そっと抱いてください。そして、手をぎゅっとにぎってください。玉のような美しいわたしの手をからめて、足をのばして、くつろんでいただくこの家なのに。そのようなわびしい恋などしないでください。ヤチホコの神様よ。沼河比売の歌を以上のように伝えております。というような意味。

さらに、大国主は故郷に残してきた嫉妬深い正妻であるスセリ姫に対して、

ぬばたまの 黒きみ衣しを まつぶさに とり装い 奥つ鳥 胸見るとき 羽たたぎも これはふさわず へつ波 そに脱ぎうて そに鳥の 青きみ衣しを まつぶさに とり装い 奥つ鳥 胸見るとき 羽たたぎも こもふさわず へつ波 そに脱ぎうて 山県に まきし あたねつき 染木が汁に 染衣を まつぶさに とり装い 奥つ鳥 胸見るとき 羽たたぎも こしよろし いとこやの 妹の命 むら鳥の わがむれいなば 引け鳥の わが引けいなば 泣かじとは、汝は言うとも 山跡の 一本 すすき うなかぶし 汝が泣かさまく 朝雨の さ霧に立たむぞ 若草の 妻の命 事の語りごとも こをば

ヒオウギの種のように黒い着物を立派にしつらえてくれたが、沖の鳥が自分の胸を見る時に、羽ばたくように手を動かしてみたが、これは似合わないようなので、波うちぎわに脱ぎ捨てよう。カワセミのように青い着物を立派にしつらえてくれたが、沖の鳥が自分の胸を見る時に、羽ばたくよに手を動かしてみたが、これは似合わないようなので、波うちぎわに脱ぎ捨てよう。山の畑にまいた「あかね草」の汁で染めた着物を立派にしつらてくれたが、沖の鳥が自分の胸を見る時に、羽ばたくように手を動かしてみたが、これはたいへんよろしいようだ。いとしい妻よ、群れをなして飛んで行く鳥と一緒にわたしも行けば、遠くへ飛んで行く鳥と一緒にわたしも行けば、それでもあなたは泣かないと言ってはいるが、きっと山のふもとの一本のススキのように、頭をうなだれて泣き、朝の雨が上がった霧の中に立ちすくんでいることでしょう。若草のように 若々しく美しいわが妻よ。大国主の歌を以上のように伝えております。というような意味だろうか。

大国主に歌には鳥がたくさん出てくる。これは大国主が鳥のシャーマンであったことを意味しているのではないだろうか。