●スサノオの3女神とアマテラスの5王子
海原を治めるように命じられたスサノオ(素戔嗚)は泣いてばかりで、海原を統治ようとしない。イザナギが理由を尋ねると母神であるイザナミ(伊邪那美)のいる根之堅洲国に行きたいというので、イザナギはの怒り、スサノオを追放する。追放されたスサノオは母の故地である出雲と伯耆の境目付近にある根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上る。その駈け上がってくる勢いがすざましいので、天照大神は弟が攻め入って来たのではと思い、武装して応対した。スサノオは身の潔白を晴らすため天の安河原でウケイ(誓約)という占いを行う。両者はお互いの身に着けていた剣と珠を交換し、それぞれ噛み砕いて吐き出すと、アマテラスの珠からは5人の王子が生まれ、スサノオの剣からは3人の姫が生まれた。
天の安河原のウケイでアマテラスの珠から生まれた5人の王子は稲魂に関係する。オシホミミは稲穂が長く垂れた様子、ホノニノギは穂が賑々しい様子、ホヒは稲の霊の意味、アメノヒコネは天の日子(太陽の子)とも言えるし「稲の根」の意味ともとれる。クマノクスヒは「隅の不思議な霊」という意味。
スサノオの剣から生まれた3人の姫、タキリ姫、タキツ姫、サヨリ姫である。この三女神は「たきりたつ」または「ほとばしる」という水の威力を表し、サヨリは霊力がそこに宿るという意味。稲を育てるために欠かせない水と風をつかさどる女神といえる。
北沢方邦著『古事記の宇宙論』平凡社新書2004年によると、オリオン座の三ツ星は「カラスキ」と呼ばれ、それはスサノオの剣で、シベリア高気圧が巻き起こす冬の暴風がやって来る北西を差している。冬を代表する星座であるオリオン座の三ツ星は天高く南中するとき、北西を差し、この冬の嵐を防いでいると見立てている。カラスキはスサノオの剣で、その三ツ星は天の安河原のウケイによってスサノオの剣から生まれた3人の娘、タキリ姫、タキツ姫、サヨリ姫である。
福岡県宗像市の宗像大社は、海上50キロ離れた沖ノ島(タキリ)、十数キロの中津島(サヨリ)、海岸の辺津宮(タキツ)の3つが正確に北西角に並んでいる。広島県の安芸の宮島の厳島神社も、本殿、拝殿、舞台、海中の鳥居の線が北西角に並んでいる。大分県の宇佐八幡神社も本宮と奥宮を結ぶ線が北西角にある。
江の島の辺津宮と中津宮が北西角であり、山頂の奥津宮と前二社は正三角形になっている。これは暴風雨を象徴する三つ巴紋を示している。
大阪の住吉神社は三つ星を祀っている。この三つの星は海の上の方、中の方、底の方の3つの神でもある。これはオリオン座が東の水平線からのぼるとき、三つ星が立てに並んでひとつづつ、水平線から昇ってくることを表している。
アマテラスの5人の王子はスバル星団に見立てられ、スバル星団の形が魂を象徴する勾玉の形の原型となったと考えられる。星座としては、まずスバル星団が東から昇り、それを追いかけて、オリオン座が昇ってくる。
●国譲り神話とアジスキタカヒコネ
国譲り神話には、アマテラスの珠から生まれた5人の王子が関係してくる。葦原の中つ国は大国主が統治していたが、これは将来的には、アマテラスの子孫が治めるべき国だと考え、オオクニヌシに国を譲るように迫る話。
はじめに使者に選ばれたのはオシホミミであるが、オシホミミは天の浮橋の上から覗いただけで、あまりにも騒がしい国なので無理だとあきらめてしまう。2番目に使者となったのは、ホヒであったが、ホヒはオオクニヌシの家来になってしまい3年たっても便りがない。
3番目の使者となったのが、天津国玉命の子である天若日子(アマノワカヒコ)で、アメノワカヒコには、天之麻古弓(アメノマカコユミ)と天之波波矢(アメノハハヤ)を与えて葦原の中つ国へ遣わした。アメノワカヒコはオオクニヌシの娘下照姫(シタテルヒメ)と結婚し、自分自身が葦原の中つ国の王になろうと考えた。
下照姫と結婚したことは、作戦なのか、謀反なのかわからないので、天照大神と高皇産霊神は、雉の鳴女(ナキメ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女(アメノサグメ)が、不吉な鳥だから射殺すようにと天若日子に勧め、天若日子は鳴女を射殺してしまう。鳴女を貫いた矢は、そのまま高天原にまで飛んで行った。高皇産霊神はその矢を見つけ「天若日子に邪心があるならばこの矢に当たるように」と呪文をして下界に落とすと、その矢は寝所で寝ていた天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまう。
夫の死を嘆く下照姫の泣き声は、天まで届き、天若日子の父である天津国玉神とその妻は、息子の死を知り、葬式に参加する。その葬式に天若日子とそっくりの人が現れる。それが味鋤高彦根(アジスキタカヒコネ)であり、下照姫の兄であった。
天若日子の両親は息子が生きていたと喜び、アジスキタカヒコネに抱き着くが、アジスキタカヒコネは死人と似ているとは汚らわしいと、天若日子の喪屋を切り倒し、蹴り飛ばす。下照姫は「天なるや、オトタナバタの項がせる、珠のミスマル、ミスマルに、穴珠はや、御谷ふた渡らす、アジスキタカヒコネの神ぞ」と歌い兄の名を顕わした。この歌は「夷振(ひなぶり)」つまり宮廷に伝えられた歌曲の一つであるという注釈がついている。
天若日子とアジスキタカヒコネは顔が同じということから同一神であり、秋になり冬になり生命活動が弱まったのが、春になって復活することを、天若日子の死と、アジスキタカヒコネの登場ということで表現したのではないかと考えらえる。
下照姫の歌は、「スバルを追いかけて昇ってくるオリオン座は2つの谷をまたぐほど大きい」という意味にとれる。春から夏にかけては天若日子。つまり稲魂として稲に入り、秋から冬はオリオン座として天にある剣として北西から吹く寒気を刺している。オリオン座のことをアジスキタカヒコネと考えるなら、下照姫はまさに下で照っているリゲルであり。アジスキタカヒコネは高いところで赤く輝くペテルギウスといえる。
●鳥のシャーマンが稲魂を運ぶ
『古事記』ではアジスキタカヒコネに対して、別名を迦毛大御神(カモノオオミカミ)としている。古事記において最初から大御神として呼ばれるのは、天照大御神とこの迦毛大御神の2柱だけである。カモは鳥のカモのことかもしれない。カモは冬鳥で、稲の収穫の頃にやってきて、春が来ると北へ帰っていく。カモは稲魂と関係がある鳥と考えられたのではないだろうか?
天若日子の葬式には8日8夜行われたが、その葬式にはたくさんの鳥が登場する。「喪屋を作りて、河雁を岐佐理持(キサリモチ)とし、鷺を箒持ちとし、翠鳥(カワセミ)を御食人とし、雀を確女(ウズメ)とし、雉を哭女(ナキメ)とし、各行い定めて、日八日八夜八夜を遊びき」とある。カワカリに料理を運ぶ役目。サギにホウキ持ち、これは清掃係りというよりは、もっと呪術的な意味があると考えられる。カワセミに料理を作る役目、スズメに米を搗く役目、キジに泣き女の役目を与えて、「遊ぶ」は古代においては「儀礼」であり、現在のような宴会といった感じではなかったのではないかと考える。
弥生時代、銅鐸の神事を司るシャーマンは鳥の扮装をしていたことが発掘調査から次第に明らかになってきている。
日本に稲作が普及し、狩猟採集の縄文時代から、定住農耕の弥生時代が始まる。弥生時代の名の由来は、現在、東京都文京区弥生2丁目の東京大学のある敷地から見つかった貝塚から出土した土器を「弥生式土器」と名付けたことによる。
奈良県の唐古・鍵遺跡は弥生時代を代表する遺跡で、この遺跡の発掘が、もう少し早ければ、弥生時代は「唐古・鍵時代」と呼ばれていたかもしれない。唐古・鍵遺跡の南東3キロには、邪馬台国かもしれないといわれている纏向遺跡がある。唐古・鍵遺跡はプレ邪馬台国かもしれない遺跡。唐古・鍵遺跡からは、銅鐸をつくった工房跡と考えられる遺跡が発掘され、格子状に柱を配置する総柱の大型建物跡も発掘されている。近接する河内・和泉・紀伊・摂津・近江の土器が出土しており、各地と交易交流を行っていたこともわかっている。内陸奈良でありながら、海の魚の骨も見つかっている。吉備や尾張の土器も見つかっている。
唐古・鍵遺跡では、土器に絵を描く風習があり、その絵から弥生時代、銅鐸を使い稲作に関する祭祀を司るシャーマンは鳥の扮装をしていたことがわかった。
邪馬台国かもしれないといわれている纏向遺跡の北西3キロにある唐古鍵遺跡のさらに北北西600mにある清水風遺跡は、唐古・鍵遺跡の衛星集落のひとつと考えらえている。時代は1世紀(弥生時代中期)まさに銅鐸の時代である。そこで鳥の扮装をしたシャーマンの線画が発見された。
大林太良編『日本の古代13・心のなかの宇宙』中央公論社昭和62年によると、佐賀県神埼郡神崎町の川寄吉原遺跡の銅鐸型土製品には、右手に戈、左手に盾、腰に剣を下げ、頭に鳥の羽根かざりをつけたシャーマンが、舌のついた銅鐸と三本の矢が刺さったイノシシみたいな動物を背景に描かれている。川寄吉原遺跡は吉野ヶ里遺跡のすぐ西にある遺跡である。
鳥のシャーマンは鉾と盾を持って、模擬戦闘のような踊りを舞ったと考えられている。これとスサノオの3女神は関係しているかもしれない。水と風は恵みをもたらすと共に、禍ももたらす。稲を育てる水と風。台風などの災害、冬の寒波をもたらす水と風。この善悪の2面を模擬戦闘によって戦わせ、善が勝ち、悪を抑えるという呪術的な舞が行われたのかもしれない。
また、豊作を祈る呪術、風水害や暴風雨を避ける呪術には、イノシシやシカが風の神への生贄にささげられていたのではないかと考えられている。この風習の名残は、諏訪大社に色濃く残っている。諏訪大社では三月酉の日に行われる御頭祭は、諏訪大社の上社の年中行事の中で一番重視されている神事で、かつては75頭の鹿の頭が生贄として奉納されていた。現在でも蛙狩神事という、蛙を生贄にする儀式が伝えらえている。
この諏訪大社の御頭祭りでは、神使の頭人が御杖に、銅鐸に似た鉄製の「さなぎ」という鈴をつけて、30ヵ所あるタタエとよばれる高木のある祭場を巡って神事を行う。これは銅鐸の時代の神事の姿を今に伝えているのではないかと考えられる。
稲魂は男神だから、女性のシャーマンが祀り、稲を育てる水と風の神様は女神だから、男性のシャーマンが祀るということではないかと考えることができる。
●事代主とタケミナカタの服従
国譲りの神話は、4番目の使者を選ぶことになる。稜威雄走神(イツノオハバリ)か、その子の建御雷神(タケミカツチ)を遣わすべき」となり。天之尾羽張(アメノオハバリ)は「タケミカツチを遣わすべき」と答えたので、タケミカツチに天鳥船神(アメノトリフネ)を副えて葦原の中つ国に遣わした。タケミカツチは出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣(トツカノツルギ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか?」と訊ねた。大国主神は「美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答える」と言い。タケミカツチが事代主に答えを迫ると事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れた。
タケミカツチが「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子のタケミナカタ(建御名方神)にも訊くよう言った。その間にタケミナカタがやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」とタケミカツチの手を掴んだ。すると、タケミカツチは手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。そしてタケミカツチはタケミナカタの手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、タケミナカタは逃げ出した。タケミカツチはタケミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。タケミナカタは逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。タケミカツチは出雲に戻り、大国主に再度訊ね。大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言った。大国主は出雲国の多藝志(タギシ)の小濱に宮殿を建てて、たくさんの料理を奉った。
事代主は「言を知っている」という意味で、託宣を司る神である。言とも事とも書くのは、古代において「言(言葉)」と「事(出来事)」とを区別していなかったため。
アマノオシホミミが浮橋の上から見下ろして、あまりにも騒がしい国なので無理だと言った。それは集落ごとにシャーマンが居て、そのシャーマンがそれぞれの託宣を下していたので、それぞれがそれぞれにバラバラのことを言って行っているという状態だろう。事代主はシャーマンの時代の象徴であり、それが隠れたことによって、祭事が統一され、中央集権の時代になったということを意味しているのではないだろうか?
事代主がひっくり返した船は、天の岩屋戸に隠れてた天照大神を連れ出すために天鈿女(アメノウズメ)が踊ったときに舞台として使ったウケフネをひっくり返したものと同じではないだろうか? 天鈿女は、ウケウネの上に立って、それを足で踏み鳴らして踊った。ウケフネは穀物をいれる入れ物で虫がつかないように楠木でつくられていたという。それを踏み鳴らすことは、大地に活力を与えるというような意味があると考えられる。
スサノオの横暴に恐れをなした天照大神は天の岩屋戸を開き中に入って戸を固く閉めて閉じこもった。太陽を失った葦原の中つ国は、ことごとく闇に包まれ、夜ばかりとなった。そこに無数の神の声が五月蠅(サバエ)のように満ちて、無数の禍が起きた。そのことは、それぞれのシャーマンがそれぞれにバラバラに託宣していた銅鐸の時代を意味している。それが天照大神が岩戸から出てきて、新しい時代になる。それは冬になって力を失った太陽に、新たに活力を与える儀式として新嘗祭のスタイルが確立したことを意味していると考えらえる。
もうひとりタケミナカタとは何なのだろうか? 銅鐸の時代の神事には2種類あって、ひとつは銅鐸を鳴らして水田に稲魂を播く神事。もうひとつが禍をもたらす風の神を模擬戦闘を行ってやっつけるという神事。タケミナカタのミナカタは宗像神と同じと考えられているので、タケミナカタは銅鐸の時代の禍をもたらす暴風雨の神であり、同時に稲の生長には欠かせない風と雨の神であったと思われる。
また、現在、タケミナカタが祀られている諏訪大社では、御柱祭りがおこなわれているが、柱を立てるのは外敵の侵入を防ぐ結界の意味ではないだろうか? そのように考えると、福岡の宗像神も国境で外敵の侵入を防ぐ結界の神の性格があり、両者は一致する。
タケミナカタは大国主と高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)との間の子とされている。大国主が沼河比売を娶るために交わした歌には鳥がたくさん出てくる。この物語は『古事記』には記載されているが、『日本書紀』には記載がない。
八千矛の 神の命は 八島国に 妻まきかねて 遠々し こしの国に かしこし女を ありと聞かして 麗し女を ありと聞こして さ婚ひに あり通はせ 太刀が緒も いまだとかず おすひをも いまだとかね おとめの 寝すや板戸を 押そぶらひ わが立たせれば 引こづらひ わが立たせれば 青山に ヌエは鳴きぬ さ野つ鳥 キギシはとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴くうれたくも 鳴くなる鳥か この鳥も うち止めこせぬ いしたふや 天馳使 事の語りごとも こをば
ヤチホコノカミ(大国主の別名)は、八島国のあちらこちらに妻をさがし、遠い遠い越の国に、たいへん賢い女性がいると聞き、たいへん美しい女性がいると聞き、「よばい(結婚を申し込むために夜に女性の家へ行くこと)」をしに通い、刀の紐もまだ解かず、上着もまだ脱がないまま、ヒメの寝ている窓の板戸を、押しゆすぶり、引きゆすぶり、立ちすくんでいる。そのうち、緑の山にはヌエが鳴き、野鳥のキジはさけび、ニワトリも鳴き出した。ああ、いまいましい鳴く鳥よ お願いだから鳴くのをやめさせてくれ、神につかえる使いの鳥が、大国主の歌を以上のように伝えております。という意味。
これに対して沼河比売は、
八千矛の 神の命 ぬえくさの 女にしあれば わがこころ 浦渚の鳥ぞ 今こそは わ鳥にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は な死せたまひそ いしたふや 天馳使 事の語りごとも こをば
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の えみ栄えきて たくづのの 白き腕 沫雪の わかやる胸を そだだき たたきまがなり 真玉手 玉手さしまき もも長に 寝は宿さむを あやに な恋ひきこし 八千矛の 神の命 事の語りごとも こをば
ヤチホコの神様 わたしは、しおれた草のような女です。わたしの心は、おちつかずにフラフラ飛ぶ水鳥のようです。今は、自分のことしか考えていない鳥ですが、でもいずれは、あなた様の鳥になりましようですから、どうぞ殺さないでください。神につかえる使いの鳥が、ヌナカワヒメの歌を以上のように伝えております。
緑の山に日が沈んだら 真っ暗な夜がやって来ますでも、あなたは、朝日のように さわやかにやって来てコウゾの綱のような白い腕、泡雪のような若く白い乳房を、そっと抱いてください。そして、手をぎゅっとにぎってください。玉のような美しいわたしの手をからめて、足をのばして、くつろんでいただくこの家なのに。そのようなわびしい恋などしないでください。ヤチホコの神様よ。沼河比売の歌を以上のように伝えております。というような意味。
さらに、大国主は故郷に残してきた嫉妬深い正妻であるスセリ姫に対して、
ぬばたまの 黒きみ衣しを まつぶさに とり装い 奥つ鳥 胸見るとき 羽たたぎも これはふさわず へつ波 そに脱ぎうて そに鳥の 青きみ衣しを まつぶさに とり装い 奥つ鳥 胸見るとき 羽たたぎも こもふさわず へつ波 そに脱ぎうて 山県に まきし あたねつき 染木が汁に 染衣を まつぶさに とり装い 奥つ鳥 胸見るとき 羽たたぎも こしよろし いとこやの 妹の命 むら鳥の わがむれいなば 引け鳥の わが引けいなば 泣かじとは、汝は言うとも 山跡の 一本 すすき うなかぶし 汝が泣かさまく 朝雨の さ霧に立たむぞ 若草の 妻の命 事の語りごとも こをば
ヒオウギの種のように黒い着物を立派にしつらえてくれたが、沖の鳥が自分の胸を見る時に、羽ばたくように手を動かしてみたが、これは似合わないようなので、波うちぎわに脱ぎ捨てよう。カワセミのように青い着物を立派にしつらえてくれたが、沖の鳥が自分の胸を見る時に、羽ばたくよに手を動かしてみたが、これは似合わないようなので、波うちぎわに脱ぎ捨てよう。山の畑にまいた「あかね草」の汁で染めた着物を立派にしつらてくれたが、沖の鳥が自分の胸を見る時に、羽ばたくように手を動かしてみたが、これはたいへんよろしいようだ。いとしい妻よ、群れをなして飛んで行く鳥と一緒にわたしも行けば、遠くへ飛んで行く鳥と一緒にわたしも行けば、それでもあなたは泣かないと言ってはいるが、きっと山のふもとの一本のススキのように、頭をうなだれて泣き、朝の雨が上がった霧の中に立ちすくんでいることでしょう。若草のように 若々しく美しいわが妻よ。大国主の歌を以上のように伝えております。というような意味だろうか。
大国主に歌には鳥がたくさん出てくる。これは大国主が鳥のシャーマンであったことを意味しているのではないだろうか。