上勝町にできたイタリアンレストラン「ペルトナーレ」は、27歳の若きシェフ表原平さんが経営している。それを応援するために、師匠の奥田政行シェフがやって来られた。
奥田政行シェフは東北の方ぽい、すぐれた哲学の持ち主・森羅万象すべてを受け入れる度量の大きい方と感じました。以下講演の要約。
◆アル・ケッチャーノとは
東京で料理人としての修行をしていたのだが、実家のドライブインが倒産し、26歳の時に故郷の山形県鶴岡市に戻り、レストランを始めることになった。お金がないので、幽霊が出るという家賃10万円だけど駐車場が14台付きで、しかも国道沿いという格安物件を手に入れた。さまざまな霊能力者がやってきて、幽霊と対決したが、なかなか手ごわい幽霊だったという。追い払うのは無理と感じて共存して、仲良くする方法を考えた。ヨーロッパの教会の前に泉をつくってあるのは、それなりに意味があるというので、玄関の前に泉を作って幽霊と和解した。お金がないので食器は100円ショップで揃え、メニューブックもつくれないので、黒板に手書きした。
「アル・ケッチャーノ」はイタリア語ではなく、山形庄内弁。「あそこにこんなもの、あったわね」というような意味。ネーミングにはコツがある。頭は「あかさたな」ではじまり、終わりは「おこそとの」で終わる。そして詰まる音である促音を入れると覚えてもらえやすくなる。
「アル・ケッチャーノ」のテーマは「地場イタリアン」その意味は「地元のおいしい食材を食べてもらおう」そして「食で街を元気にしよう!」であった。
山形県というところは、幕末に最後まで徳川側として新政府にたてついたため、港のあるところを県庁所在地にさせてもらえなかった。日本海側で県庁所在地に海がないのは山形県だけ。
1960年代の池田隼人総理大臣のもとで行われた所得倍増計画。確かに所得は増えたかもしれないが、その中身は、地産地消をやめてしまったことではないか?作るところと、売るところを分けて、その間に運ぶ人をつくっただけではないか?物の価格をただ高くしただけではないのか?という疑問があった。遠回りさせて無駄遣いさせるようなやり方であったのではないか?
地元にすごく良い食材があるのに、ほとんど評価されてない。良いものは一度、東京に行って帰ってくる。または、東京での良い評価を、作っている人は知らないということもあった。
頑固な地域性があって、今ではそうでもないが、はじめたばかりは、JAさんなどを通さないで、レストランへ直接販売するということに、すごく抵抗されてしまった。貧乏であったのもあるけでど、農家さんへ出向いて行って、野菜を直接、買うことができないので、積極的にもらうことにした。お金で買わないだけで、基本は物々交換。大根の農家さんのところに、店で出たブリのあらをブリ大根にできるように、ちょうどいい大きさに切り分けて、レシピ付きでもっていったり、店に農家専用シート「グリーンシート」を設置して食べに来てもらうなどをした。
レストランは公民館であるべきだと考えている。人が集まり、出会う場であり、交流する場、いろいろ話しをする場であると考えている。料理人と生産者だけでなく、大学の教授や各種専門家などの知識人が加わってトライアングルをつくることで、世界が広がりはじめる。
野菜のことをもっと知りたいと考えたとき、野菜のおおもとは地質学が基本になるのではないかと思うようになった。
野菜が育つには、水と土と風と太陽がいる。水・土・風・太陽のことがわからないと、究極のところ野菜のことはわからない。大地という書物をじっくりしかっかり読み解いていく。それが料理人の仕事だと考えるようになった。
お客さんの方を向くのと、生産者の方を向くのとでは、料理の味そのものが変わってきた。
トマトは動物に食べてほしくて赤い実をしている。そういう食べてほしいと訴えている野菜は、できるだけ生で、そのままの味を楽しんでもらい。逆に大根のように辛み成分があり、食べてほしくないと訴えている野菜は火を加え味付けをするようにしている。そのものだけで主役になれるのが野菜。そのものだけでは主役になれないのがハーブという区別をしている。
親のつくった借金も返済でき、やりたいことはみんなやったので、後は、人材育成だと考えている。料理人の世界は未だに、昔ながらの徒弟制度で、そういうところで働く若者は、時に心が折れてしまうことがある。都会で疲れた人は、なぜか本能的に北を目指す。北国には、心が傷ついた人を癒す力があるのかもしれない。「アル・ケッチャーノ」には、そういう都会で疲れた料理人の卵が、もう一度再起をかけてやってきたりする。近くのラブホテルが廃業したのを買い取って寮にしている。
地元の若い女性がアルバイトをしたいというと、どんどん受け入れて、自然に付き合うように、それとなく仕向けるということをしている。
男には「誇りと夢を語る」ということが必要で、女には「安定と日々の小さな幸せ」が必要と、かねてから思っている。若い人がいるということは、未来があるということである。若い人がいるということは希望があるということである。と思っている。
人が育つには、「教えてあげる人」「とにかく行ってくれる人」「話を聞いてくれる人」が必要であると、かねてから思っている。
農家さんに後継者がいないという問題を解消するために、庄内平野を食のテーマパークと見立て、農家さんの畑がパビリオンで、そこへおおいに語ってもらう。そこをおとずれた人には、500円ほどの入園料を払ってもらう。そういうツアーを行っている。
世の中で使われなくなると、物は消えて行ってしまう。「売れる物をつくる」その秘訣は、その物が使われる場面をつくることではないかと考えている。それが食べ物であれば、それを食べるシチュエーションをつくることが、何よりも大切だと考えている。東京のレストランで庄内の農産物を使ってもらうように提案をしたりしている。
目の前にあるものに、何でも誠意をもって対応する。物々交換を旨とするとき、その大切さがわかる。
究極の料理は、お母さんの手料理であるという言葉がある。それは相手の望んでいるもの、今まさに食べたいものを、ジャストタイムで作ってあげるから。相手が望んでいるものを用意する。前菜があって、メインがあってなんてルールは、ただの押し付けかもしれない。たとえば遠い道のりをやってきて、疲れている人には、いきなりスパイスの効いた唐揚げでもいいと思う。その人が食べたいものを、望むものを出すことが一番。
争いのタネは、お金か、主導権争い(イニシアチブ)かで、この2つを求めなければうまくいく。まず、第一に相手の願いを叶えてあげること。そうすることで進み始める。何かが始まるときとのタイミングというのは、何か念力みたいな力が働いているといつも感じる。愛は共感するが、愛は見返りを求めない。
◆食の庄内幸福論
山形酒井空港の名前が「おいしい庄内空港」となった。軒先に干し柿がつるしてあるとか、普通の風景の中に食べるものが普通にある。野菜も現代の野菜だけではなく、伝統的につくられ、食べられてきた野菜もある。
庄内地方には、さまざまな特徴を持った土がある。そして、昼と夜の寒暖の温度差が大きく。標高差も大きい。温暖湿潤な気候をベースに、海洋性気候・盆地性気候・山岳気候がある。雪に弱い作物を除くと、すべての作物が栽培されている。春夏秋冬のそれぞれの料理があり、武家の料理・町人の料理・精進料理など文化別の料理がある。海の幸も対馬海流が運んできた幸もあり、豊かな森が育てた幸もあり、最上川の育んだ幸もある。多様な自然が生み出す多様な食がある。庄内平野は、まさに
食のミュージアムでもある。
食の都庄内として宣伝している。
ファッションと料理は近い関係にある。小さな花が散りばめてあるというのは、北欧のデザイン。長い冬に耐える人々は、春になって花が咲くのをとても楽しみにしている。だから、小さな花柄を散りばめたようなデザインを好む。オリンピックが東京で開催される。そのときは間違いなく和食が注目される。和食を生み出す日本文化、日本の自然が注目される。和食は油を使わない、世界でも珍しい食、そしてダシを使う。四季をめでる繊細な料理。
◆リストランテPERTORNARE(ペルトナーレ)の表原平シェフに贈る言葉
看板料理を作る必要がある。看板料理というのは、相思相愛でないといけない。何よりお客さんから愛される料理である必要がある。手ごろな価格で、しっかり満足できる。また、作り手からも愛される料理でないといけない。作るのが楽しいというものがよい。