2016年7月4日月曜日

コウノトリ・ナベヅル生息地をめぐるバスツアーin徳島③

コウノトリ・ナベヅル生息地をめぐるバスツアーin徳島③

●コース

②の続き

田浦より県道33号線を東へ、国道55号線を南へ、「立江橋」の手前でJA産直あいさい広場へ寄る。国道55号を南へ、瀧口さんの有機水田を見学、国道55号を南へ、「那賀川大橋」を渡らず、那賀川北岸堤防道路を西へ、「大京原橋」北詰めより、県道128号線を北へ、県道136号線を西へ、JA産直あいさい広場まで戻る。



①金磯新田

  • ナベヅルが越冬していたという記録がある。
  • 金磯町の近世の豪農多田家は農業と回船業を営み。この金磯地域が堤防の外側にあり、しばしば洪水や高潮の被害を受け、人々を苦しめていた為、三代目助右衛門は元禄2年(1689年)、現在のJR南小松島駅から阿波赤石駅の北方までの区間の西側一帯の干拓、開拓を開始した。助右衛門の意志は代々引き継がれたが、一時期は田畑や回船、自宅までも売り払ったという。しかし着実に進む開拓は徳島藩からも認められ、七代目助右衛門時には苗字帯刀が許され、九代目にして、150ヘクタール余りの新田が完成し、藩主によって「金磯新田」と名づけられた。


②JA産直あいさい広場(トイレ休憩)

  • JA東とくしまが運営する年商12億円の産直市場。週末には京阪神からのドライブ客やお遍路さんを乗せた観光バスも多く立ち寄る。


③江田島のドングヮン

  • 10月16日に火振り祭がある。若宮大明神から羽村大明神までの約300m間を、大人や子どもたちが松明を打ち振って走る。言い伝えによると、那賀川町江野島の川にドングヮンが棲んでいた。ドングヮンはタガメのような姿をした怪物であったといわれる。地域の人は、コオイムシをドングヮンとよぶことがある。ある時、いたずらをして村人に捕えられたドングヮンは、将軍の田村に助けらる。それ以来ドングヮンは、子どもを食べないことを約束し、将軍が亡くなった時には、一族で墓まで松明を照らし、打ち振って行ったという。それより村は、平穏に過ごしている。江野島では、この将軍を羽村大明神、ドングヮンを若宮大明神として祀っている。村人はドングヮンの一族が約束を忘れないようにと、毎年、火振り祭りを行っている。


④那賀川町今津浦

  • 江戸時代、阿波水軍の水夫たちが住まわされていたところで、町割りが長方形のマス目、碁盤の目になっている。長屋がたくさん立てられていたと考えられている。
  • 大久寺は今津城跡。天守山という小山として残っている。かつての城主は平井対馬守で、天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の軍勢によって攻め落とされたという。城の周りには堀がめぐらされ、町は幅3~4間の道路によって平均75坪の広さに碁盤の目のように区切られ、居内、本町、新町などの町名にも城下町の名残をとどめていて、きわめて戦略的につくられた町である。
  • 今津浦免許という地名は、今津城の殿さまが鷹狩の途中で腹痛になり、動けなくなったとき、助けてもらったお婆さんが「冥加料(税金)を払いたくない。」というので、助けてもらったお礼に税金を免除した。それ以来、免許という地名になったという。
  • 城郭放浪記(阿波・今津城)HPより
  • 那賀川町の伝説(郷土研究発表会紀要第41号)HPより
  • ふるさとの伝承(徳島県)HPより


⑤瀧口さんの田んぼ

  • 瀧口さんは元宮大工さん。宮大工の仕事をしながら、お米は作っていたが、宮大工の仕事が減ったため、お米作り一本となった。建築の現場は新建材が多く、木と対話しながら作っていくというやり方はとても難しくなってきた。それよりは稲と対話しながらの米作りの方が面白いという。


⑥島地名と見地名

  • 北岸には江野島・島尻・色ヶ島・手島・出島・中島・平島・藤島といった島地名が多い。那賀川デルタ地帯にあり、周囲を川に囲まれた中洲島になっていた。南岸にも柳島・南島がある。
  • 南岸には七見・西路見・横見の見は水のことで伏流水が上にたまった土砂の圧力で湧水となって湧き出していたところ。


⑦那賀川

  • 高知県に源流のある吉野川の徳島県内の幹川流路延長は109kmであり、徳島県内の長さの順位としては125kmの那賀川が第一である。
  • 徳島県那賀郡那賀町木頭北川の剣山山系ジロウギュウに源を発し、高の瀬峡を経て南流ののち東流。北東流に転じる中流域では著しく蛇行する。平野に出る下流域で再び東に向きを変え、阿南市辰己町と阿南市那賀川町中島の境界から紀伊水道に注ぐ。徳島県唯一の県内に源流があり流域が県内のみで県内だけを流れる一級河川である。
  • 暴れ川吉野川が「四国三郎」と呼ばれるように、暴れ川那賀川を「阿波八郎」と呼ぶことがある。吉野川下流が藍作であったのに対し、那賀川下流は米作地帯であった。那賀川流域は阿波の南方とよばれ、吉野川流域である阿波の北方とは、文化も人情も違うといわれる。大化の改新(645年)以前は、那賀川流域に長国があり、吉野川流域の粟国とは別の国であったという。
  • 河口から10キロ上流に北岸堰がある。北岸堰の名前の由来は、羽ノ浦・那賀川・小松島の那賀川の北岸地域約2,500haに水を供給しているため。国営那賀川北岸土地改良事業により、昭和30年(1955)に完成した固定堰。
  • 那賀川下流域は洪水時は天井川となる。
  • 津波対策のため大規模な堤防強化事業が進められ、そのミチゲーション(代償処置)として人口干潟が作られた。


⑧那賀川大橋

  • 橋長:579m。完成年:1993年(平成5年)。上部工形式:鋼桁橋+PC桁橋。


⑨那賀川の連続堤防と取水堰

  • 吉野川同様、那賀川が現在の形になったのは連続堤防の完成と共に、流路が現在のものに固定されてから。
  • 下流南岸の柳島町、横見町一帯の用水不足を解消するための乙堰(明治19年【1886年】)や阿南市吉井町の63haを 灌漑する大西堰(明治23年【1890年】)が造られるが、取水量が多くなった分だけ渇水時における水不足も増え、あちこちで水争いが起こるようになった。特に北岸の 大井手堰と南岸の竹原堰の水争いは深刻で、明治27年(1894年)には投石による負傷者が続出し警察が制止に入るという大事件となった。
  • 那賀川に連続した頑丈な堤防を造るためにはいくつかある取水口に対しては障害となる。こうした、取水と治水は一体のものであるとする考え方も徐々に認められるようになり、大正7年(1918年)、新聞紙上で南岸統一用水路の提案が農民から出される。
  • 政府でも抜本的な改修の必要を認め、四国では四万十川、肘川と並んで直轄改修の河川として選定され、調査も始るが、財政的な問題もあり、本格的な改修工事が始まるのは昭和7年(1932年)になってから。
  • 南岸は「一の堰」約300ha、「竹原堰」567ha、「乙堰」165haの3つの堰を統合する南岸堰を、県営事業として昭和13年(1938年)に計画が立案。翌年に工事が始まるが、戦時中の資材不足などから12年の歳月を要し、ようやく完成を見たのは戦後の昭和29年(1954年)でした。幹線水路5,876m、計1,037haを潤す用水。
  • 北岸堰は「上広瀬堰」「大井手堰」「下広瀬堰」の3つを統合し、計2,500haの灌漑用水として昭和23年(1948年)、国営事業として着手され、昭和30年(1955)に完成する。
  • 那賀川平野の農の礎HPより


⑩那賀川の河原

  • 越冬するナベヅルがねぐらとして中州をつかっている。


⑪大京原橋

  • 橋長:391m。完成年:1974年(昭和49年)。上部工形式:鋼トラス橋(3径間連続直弦ワーレントラス2連を上弦材を繋ぎ6径間が連続しているように見せている。)


⑫早場米のはじまりと広がり

  • 柏木清氏(阿南市見能林町・大正8年生まれ)は、秋落解消を目標に、早期水稲を7haも栽培し研究していた。昭和38年(1963年)の徳島県主催の米作り多収穫競技会において、品種藤坂5号を使って四石三斗七升五合を上げて、県下1位となる。これをきっかけに見能林では早期米が盛んにつくられるようになり、大阪の正米市場がこれに飛びついた。梅雨を超えて、前年度に取れた米が古くなりまずくなるが、これに新米を混ぜて風味付けをすると、味がよくなる。徳島の早場米は「味付け米」として高い値段で買われることになった。徳島県は開闢以来、ずっと米が足りない不足県であり輸入県であったので、早場米が県外に売れてということは大ニュースであった。昭和40年はお米の不作年であり、翌昭和41年からは米の1割増産運動が展開され、日本のお米は足りないと農家は思っていた、そこに昭和45年から減反が始まる。昭和40年(1965年)には、1人あたり1日306.2g食べていたのが、昭和50年(1975年)には240.6gに、昭和60年(1985年)には204.3gに、平成10年(1998年)には178.5gまでに減った。
  • 立石一著『阿波型農業物語』2007年・徳島県農政クラブより
⑬農協運動・有機農業運動を始めた一楽照雄を育んだ風土
  • 農林中金の専務を務め、農協の組合運動を指導し育て、晩年、日本有機農業研究会を立ち上げ、産消提携運動を推進した一楽照雄氏の故郷は羽ノ浦町岩脇である。田村家から一楽家の養子となり、運動会があるからといって運動靴は買ってくれなかったが、上の学校に進学することは反対しないという環境であったので、東大へ入るが、卒業して官僚になる気がしなかったので、銀行家になったという。一楽家は庄屋で、台風や旱魃で、お米が獲れないとき、小作人が生活に困って金を貸してくれと来るが、次の年に倍獲れるわけではないので、お金を貸す条件としてワラ縄・ムギ縄でつくるムシロ旗の織り機を貸してあげて、ムシロ旗をつくることでお金を返す目途をつくってあげていたという。このことが、銀行家一楽が飢饉に喘ぐ東北や北陸に、熱心に地場産業を育成し、「達者で長生き」をテーマに、農協の組合組織づくりを熱心に展開した根底にあると考える。ゴーダッチといえばワリカンのことであるが、なぜ「オランダ風で行こう」ということがワリカンを意味すのか?オランダは低湿地帯で水害に合うことが多く、災害に合うことで人々は助け合うことが自然にできるようになるという。徳島の風土は、吉野川や那賀川が育てたものであり、それは災害に合うことで、人と人との間に自然と助け合う精神が育まれていったものなのかもしれない。
  • 農文協編『暗夜に種を播く如く~樂照雄協同組合・有機農業運動の思想と実践~』2009年・農山漁村文化協会より
⑭暴れ川と人の関わり
  • 那賀川下流域には、多くの水神をまつる小さな祠がある。(古庄・岩脇・西園・上中・野神・明見・古毛・持井・西原・北大京原・辰巳・横見・南大京原・小田・下大野・柳島・清松・久留米田・林崎などに水神の祠がある)特に岩脇・古庄の水神社の祭日(8月16日)には、1000発の花火が打ち上げられ、那賀川の土手は大勢の人で賑わう。
  • 万代堤は、1787年に庄屋の吉田宅兵衛が私財を投じて北岸に築いた約1kmの大堤防。宅兵衛の孫は、堤防を守るため600トンもある大岩を山から川に投入たという。
  • 那賀川下流域には多くの「だんじり」がある。江戸時代、藩は産土神社の秋祭りに那賀川の両岸、大野と古毛、岩脇と南島、古庄と柳島という組み合わせでだんじりを出させた(出祭り)。これは対岸同士の友好を深め、水争いをなだめるためであったという。
  • 堰を開けて斬首された百姓を弔う三栗の首塚。藩に無断で分水を試み刑死した銅蔵を弔う銅蔵原。人柱になった囚人を弔う古毛の弁天など、水にまつわる多くの悲話が残っている。
  • 人柱の伝説が語り継がれてきた野神の水神社。昭和の工事では伝説どおり古い人骨が発見されたという。
  • 佐藤良左衛門は水不足に苦しむ村を救うため水路の開削を決意。20年近い歳月をかけて広瀬用水を完成させる。しかし、藩の許可なく造ったために、良左衛門以下10数名が牢屋に入れられ、良左衛門は無許可工事を黙認してくれた郡奉行に災いが及ぶのを恐れ、責任を一身に背負って獄中で服毒自殺したという。
  • 大井手堰を造ったのは良左衛門の祖父である。困難を極めた工事に娘が人柱を申し出る。村人の制止にもかかわらず、娘は村の幸せを祈って棺に横たわった。いざ埋める間際、藩の使者から、娘の代わりに埋る仏像が届けられる。涙を流しながら村人は石に凡字を刻み、仏像ととも埋めた。石の数は1,080個に及んだという。
  • 明治26年の渇水では、大井手堰掛りの農民は手に鍬を持って集合、竹原堰から大井手堰まで20町(約2km)を砂洲を掘り、水を引いた。これを聞いた南岸の農民もすぐさま埋めにかかり、両岸入り乱れての大乱闘となった。警官の制止にもかかわらず、乱闘は3日間も続き、翌日の雨で治まったという。
  • 那賀川下流域では小作率が非常に高く平均60%を占めていた。明治になり租税改正が行われ、地代納税は年貢よりも厳しく、明治から大正にかけて小作争議の多発地帯となった。徳島県は北海道への移住者が5万人ととても多い県としても知られている。徳島県からの北海道移住者に占める那賀川下流域の人の割合は2割以上と、とても多い。
  • 那賀川平野の農の礎HPより
⑮鶴林寺のツル
  • 四国遍路19番札所である鶴林寺の縁起によると、弘法大師がこの山で修業をしていたおり、老杉の木の上で、夫婦の2羽のツルが地蔵菩薩を守っていたという。弘法大師さんは、ツルが守っていた5.5㎝ほどの小さな黄金の地蔵菩薩を見て感動し、その近くにあった木で90㎝ほどの地蔵菩薩像を彫りあげて、その中に小さな黄金の地蔵菩薩を納めたのだという。木の上の夫婦のツルはコウノトリのことだろうと考えられる。
  • 釈迦が入滅の際に、沙羅双樹の葉が鶴の羽のように白くなった言い伝えから、「鶴林」は釈迦の涅槃をも意味する。霊鷲山・宝珠院・鶴林寺という。ちなみに霊鷲山(りょうじゅせん)は、インドのビハール州のほぼ中央に位置する山。釈迦仏が無量寿経や法華経を説いたとされる山として知られる。現在のラージギルの東方にあるSaila-giriの南面の山腹にあり、現在はチャタ山と呼ばれている。釈迦仏が在世した当時では、マガダ国の首都だった王舎城(ラージャグリハ)の東北、ナイランジャナー(尼連禅河=にれんぜんが)の側にある小高い山である。この山は長らくの間、場所も忘れられていたが、1903年(明治36年)1月14日朝、大谷光瑞が率いる第1次大谷探検隊が朝日に照らされたこの山を仏典上の霊鷲山と同一と確定した。数年後のインド考古局第3代目の長官ジョーン・マーシャルの調査によって国際的に承認された。かつてビンビサーラ王も、車を降りてその参道を登ったといい、王の要請により布薩制(ふさつ、懺悔の儀式)を設けられた。
  • 「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つ。延暦17年(798)に桓武天皇の勅願により弘法大師が創建。平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正(1573~92)の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。


2016年7月3日日曜日

コウノトリ・ナベヅルの生息地をめぐるバスツアーin徳島②

コウノトリ・ナベヅルの生息地をめぐるバスツアーin徳島②



●コース

①の続き

吉野川を「四国三郎大橋」で渡る。鮎喰川を渡り、鮎喰川南岸堤防、吉野川南岸堤防を東へ進む。古川橋のアンダーパスをくぐり、河川敷グラウンドの川側を東へ、住吉干潟まで行く。住吉干潟見学後、吉野川新橋の手前から吉野川南岸堤防下道路を東へ、吉野川の最河口を見学、マリンピアの県民活動プラザで昼食。「末広大橋」で新町川を渡り、「勝浦浜橋」で勝浦川を渡り、勝浦川の南岸を東へ。勝浦川河口干潟を見学。Uターンして、「勝浦浜橋」を再び渡り、勝浦川西岸堤防道路を南へ、国道55号「勝浦大橋」を渡り、勝浦川東岸堤防道路を南へ、田浦地区を見学。

●バスツアー見学場所要旨説明より

①四国三郎大橋
全長910.5m。1998年3月26日に開通。

②鮎喰川

  • 吉野川の支流であり、河口から6 km上流(吉野川橋から1 km上流)の地点で吉野川に合流する。幹川流路延長は43 km、流域面積は198.7 km²。徳島県名西郡神山町にある雲早山に源流がある。ダムがない川。雨の少ない季節には、伏流水となり中流から下流では表層水が無くなることもある。


③吉野川汽水域

  • 河口から第十堰まで14.5kmまで海水が上り、国内最大の汽水域を形成している。吉野川が現在の形となったのは、明治40年から昭和2年にかけて、河口から40キロ上流の吉野川の狭窄部岩津までの間の両岸に連続堤防が築かれたことによる。この堤防工事により、別宮川が放水路として整備され、現在の吉野川本流となった。


④吉野川橋(古川橋)

  • 橋長は1,071m。17径間曲弦下路式ワーレントラス橋。1928年(昭和3年)12月に竣工。12年に1度塗装の塗り替えが行われる。
  • 吉野川空港:大正11年(1922)11月。日本初の定期航空路が堺⇔徳島間に開設され、水上飛行機が吉野川から発着する。当時はパイロット1人、乗客1人の小型機。昭和32年、日本観光飛行協会が大阪堺⇔吉野川橋の旅客航空路線を開設。機材はDH ビーバー(客席数5)。翌年には機材がフロート式水陸両用機DHC-3 オッター(つばめ号、客席数14)となり、昭和35年にはグラマンG-73マラード水陸両用飛行艇が就航し伊丹空港発着となる。昭和38年にはコンベア240(客席数40)の就航で現在の徳島空港発着となり、吉野川空港はなくなる。
  • 浚渫工事が行われているのは、新町川航路の掘削のため。
  • 松茂の交通HPより・航空輸送と空港より


⑤住吉干潟

  • 26万人が暮らす都市の中央を流れる吉野。その河口にありながら、良好な干潟が残っていることは奇跡かもしれない。シオマネキ・ハクセンシオマネキ・トビハゼ・フトヘナタリ・ヒロクチカナコ貝などが普通に見られる。
  • 河口~吉野川大橋までの500haは1996年に日本で最初に「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ生息地ネットワーク(シギ・チドリ類)」に参加し、環境省の「日本の重要湿地500」にも選定され、さらに2010年9月には、ラムサール条約湿地潜在候補地となっている。
  • ホウロクシギやズグロカモメなどさまざまな渡り鳥が訪れ、ヘラシギ、クロツラヘラサギは、定期的に飛来。
  • 当河口域の生態系は豊富な生物相により支えられており、それぞれの個体群の規模も大きい。底生生物相は265種が確認されており、魚類は144種が生息している。
  • 植物は,河口域ヨシ群落が環境省特定植物群落に登録されている。とくにシオマネキ・ハクセンシオマネキは個体数が多く安定している。
  • 河口域は魚類の重要な食物源を提供しており、魚類144種が生息し、漁業資源として、アユ・アユカケ・サツキマスなどが依存する回遊経路となっている。


⑥吉野川河口

  • 四国横断自動車道の橋(仮名称:吉野川河口大橋)の基礎工事が進められている。橋長:1700mは鳴門大橋よりちょっと長い。2019年完成予定。
  • 進学と就職で、人口がどんどん流出して、減っていく四国。もともと日本の人口の3%の400万人しか住んでいないのだが、3今から30年で、さらに100万人減少し、四国は三国になる。四国が三国になったとき、この4本目の橋は「いらんかった」といわれるかもしれない。
  • 南海・東南海大地震の際に海岸は津波と地盤沈下と液状化で壊滅的な被害を受けることが予想されており、東北の大震災を受けて、ライフラインを守るための道路はもっと内陸に作るべきではないかという声もあるが、走り出した公共事業は誰にも止められない。
  • 沖洲人工海浜 四国横断自動車道の建設のため、ルイスハンミョウが生息している干潟を埋め立てることになり、徳島県は2007年、虫たちの生息地とし、市民の憩いの場にもなればと26億円をかけて近くに造成。その後、虫たちを移した。波打ち際に防護柵を設けるなどし、あえて場所を公表する手法で保護を図ってきた。2008年度は4匹、2009年度は26匹と次第に増加し、2010年度には49匹を確認したが、2011年度は8匹に激減、2012年度はついに1匹だけしか確認できなかった。野生の昆虫にとっては人工海浜は狭すぎたのだろうと考えられる。
  • 読売新聞HPより・2013年5月10日「ルイスハンミョウ激減~徳島・東沖洲の人工海浜で保全」より


⑦県民活動プラザ(昼食)

  • 県民活動プラザは、かつては徳島と大阪・関西国際空港を結ぶ高速船の港であった。1996年のマリンピア沖洲の埋立完了とともにマリンターミナル沖洲として開業。
  • 1998年の明石海峡大橋の開通を受けて、高速バスの利用客が伸びるとに並行して高速船の利用者は減少し2000年2月29日に徳島・関西国際空港・大阪航路は廃止となる。
  • その後、南海フェリーが徳島・和歌山航路を運航するが2002年1月31日に高速船の営業は終了となる。


⑧津田港

  • 津田港は今は漁港であるが、江戸時代から明治まで阿波国の玄関港として栄えた。小松島港ができたのは大正時代になってから、小松島港が第2種重要港湾に指定されるのは1921年(大正10年)。
  • 江戸時代の弘化・嘉永の年間には阿波と上方との間に、二百石船が出入りするようになり。阿波藩としても藩の表玄関として、津田河口御番所が設けられて、常時4名の役人がつめて、城下に出入りの舟の監視にあたっていた。出船は阿波特産の塩、藍、砂糖、煙草、反物、玄米などあり、その量は莫大な物。又、入船に関しては、その船の船籍地の庄屋の発行した手形により、行き先積荷乗船者の人数、又職業まで厳しく検査され手形の提出があった。出入りの船は関西のみならず、関東からの出入りが多くあった。
  • 津田港の築港は幕末藩政末期の混乱時代、申請して代官所よりの許可は下りたものの、藩としても財力なく助成金の一切もない。この時に6名の世話人が立ち上がり、資金を工面し、住民達の労力によって、慶応元年の丑年に完成。築港の世話人6名の名が刻まれた碑が建っている。十四軒屋次良兵衛・大和屋虎蔵・湊屋茂兵衛・濱屋庄作・團弥助・大和屋与一兵衛の6人のうち、大和屋さんは盆唄に「鯛になりたや鳴門の鯛に、阿波の与一兵衛さんに釣られたい」と唄われている。回船問屋の数は40数軒あり、荷物を預かる白壁の土蔵が立ち並んでいた。「トウカイ」と呼ばれる大型帆船が沖に碇泊していた。蛭子神社「おいべっさん」を中心に盛り場ができ、賑わっていた。浄るりなど遊芸も盛んだった。明治13年の津田港からの積み出し記録:藍玉25万俵・砂糖4万6千俵・たばこ1万3千箱・反物30万反・玄米20万俵。関東売藍商と契約を結んだ大型船だけでも65隻。船舶の出入り414トンは徳島県の3分の2にあたる。


⑨末広大橋

  • 1975年完成。橋長:470m(中央支間長:250m)大阪府の阪神高速湾岸線の大和川橋梁が1981年に完成するまでは、末広大橋が日本最長の中央支間長を有する斜張橋であった。現在ではしまなみ海峡の多々羅大橋、橋長:1480.0m(径間割:270.0m + 890.0m + 320.0m)が日本最長。



⑩勝浦川

  • 全長49.6km。流域面積224㎡。雲早山(標高1,495.9m)の東斜面に水源がある。


⑪勝浦川河口干潟

  • 環境省の重要湿地500に指定されている。狭い範囲に、さまざまな種類の干潟があり、多様な生物が観察できる。シオマネキ・ハクセンシオマネキ・トビハゼ・フトヘナタリなどがいつ行っても普通に見られる干潟は、すでに日本にはあまりない。


⑫勝浦川流路変更

  • 蜂須賀氏が阿波に入国し、現在の徳島城を築城したのに合わせ、勝浦川を現在の流路に変えた。それまでは、小松島港にそそぐ神田瀬川やその南の芝生川が本流であったが、現在の田浦から江田への南岸堤防と同じ位置に百間堤を築き、大松川へ流れるようにした。これにより小松島の水田開発が行われ、勝浦川流域の物資を水運で徳島城下へ運ぶことが容易になった。
  • 蜂須賀氏は城の西の鮎喰川が現在の佐古川に流れ込んでいたのを堤防をつくり吉野川へつなげ、第十堰あたりを運河をつくり別宮川へ水を引き入れ、現在の吉野川の流路にした。城の南の園瀬川を眉山に沿わせるように付け替え、さらに冷田川へ流れていたのを堤防で止めて、現在の流路にし、上八万・八万の水田開発を行った。現在の川筋は、蜂須賀氏による土木工事によってのものが多い。
  • 蜂須賀氏は、尾張国蜂須賀郷に領地をもち、木曽三川を背景に水運と河川土木に長けた一族であった。秀吉の墨俣一夜城の築城、備中高松城の水責めの築堤担当として活躍している。時代劇では盗賊の親分や巨漢の猛将のように描かれることが多いが、これは面白くするための創作であり、歴史の上では、秀吉の腹心で、戦後処理交渉などに活躍している。ハチは多い、スカは中洲を意味する。木曽三川の大河が育てた一族であり、それが大河の国、阿波国を与えられたのだから、適材適所であったことだろう。


⑬勝浦川中洲に残る昔の堰

  • 勝浦川中洲に残る昔の堰は、水田に水を引き入れるための堰。かつては村ごとに堰があり、お米作りの始まりに、堰を修復するという重要な仕事があった。山からシダやウラジロを獲ってきて、石の間にはさみ崩れにくくし、鋤簾(ジョレン)で砂利を集めてきて、石組の堰を砂利で埋めて頑丈にした。


⑭田浦町西原の水車

  • 井口から引き込まれた勝浦川の水は毛細血管のように、幾重にも枝分けれしていき、小松島市の水田の3分の1を潤す。
  • 江戸時代の『阿波国名所図会』に掲載されている「母川のホタルと水車」の絵の水車と基本的に構造は同じ。変わった部分は水をくみ上げる桶が粉ミルクの缶になったことと麻ロープがマイカー線になったことくらい。


⑮新居見の土偶

  • 勝浦川の東には「にいのゐ郷」、勝浦川の西に「たから郷」、丈六寺付近に「しのはら郷」、日ノ峰の山麓に「あまるべ郷」があった。「にいのゐ」は新しい井戸のこと。実際に勝浦川の伏流水が湧いている清浄ヶ池がある。
  • 2011年、高速道路建設工事に伴う発掘調査で、小松島市新居見町山路の新居見遺跡から、縄文時代晩期のものとみられる土偶1体が出土。県内で縄文時代の土偶が確認されたのは初めて。出土した土偶は、腹から脚にかけての下半身のみで、高さが7.6㎝、厚みは最大2.5㎝。胴と脚の境、脚とかかとの境、尻と背中のくぼみには線が引かれ、へその部分はベンガラで赤彩されていた。脚の破損した部分やX線写真から、頭や脚などの部位を別々に作り、胴体を中心につなぎ合わせる手法でつくられたもの。呪術や儀礼に使用する土偶の発見は、そこにある程度の人が棲む集落、つまり社会が営まれていたことを意味する。


⑯田浦の埴輪祭祀あとと流れてきた神様

  • 田浦の前山にミカン畑やタケノコ山をつくる際に、人型埴輪や盾型埴輪が発見された。古くから人の営みがあったことを示している。子安観音はかつて、前方後円墳であった可能性があり、勝浦川の氾濫で墳丘の盛り土が流出し、古墳に使われていた埴輪が露出したのを、住民が見つけ、山麓に移して埋め直したものではないかと考えられる。
  • 中田町の建島女祖神社には、八幡神が合祀されているが、この八幡さんは元は多家良町本庄にあったのが、洪水で流れてきて、江田町で中田西八幡神社(澤星八幡)として祀られていたもの。


⑰田浦町の有機栽培水田

  • 上王子特質米生産組合は上王子神社の氏子で結成された減農薬米の生産組合。のちに無農薬栽培になる。
  • 平成元年(1989年)から減農薬米の生産と販売の活動を始め、
  • 平成16年(2004年)からホタルと水車の保全活動をしている
  • 平成19年(2007年)に種子殺菌を農薬から温湯に変えることで、完全無農薬栽培にとなった。
  • 平成26年(2014年)新嘗祭に献穀




コウノトリ・ナベヅルの生息地をめぐるバスツアーin徳島①

2016年7月3日(日)実施。

●コース

徳島市東沖洲マリンピアを出発。吉野川を「阿波しらさぎ大橋」で渡たり、今切川を可動橋の「加賀須野橋」で渡る。国道11号線を北へ、鳴門市大津より農免道路を西へ。県道39号線を南へ、旧吉野川の北岸堤防道路を西へ。JA徳島北津慈集出荷場でバスを降りて、コウノトリの巣を鴨原より見学。「鳴門藍住大橋」で旧吉野川を渡り。県道41号を南へ、「四国三郎大橋」で吉野川を渡る。②へ続く。

●バスツアー見学場所要旨説明より

①吉野川

  • 幹川流路延長194 km。流域面積3,750 km²。
  • 源流は愛媛県西条市と高知県本川村(現在:いの町)に頂を有する瓶ヶ森(標高1896.2 m)にある。
  • たびたび洪水を引き起こす暴れ川として有名。日本三大暴れ川のひとつ。利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び四国三郎の異名を持つ。
  • 阿波国内での豪雨の他に、上流の土佐藩領内で豪雨が降ると、阿波で雨が降らなくても水害に見舞われる状況であった。このため阿波での豪雨に伴う水害を「御国水」、土佐藩内での豪雨に伴う水害を「阿呆水(土佐水)」と呼んだ。初期の対策としては築堤の他水防竹林の植生があり、「筍奉行」を設置して竹林の整備を重点的に行った。一方、住民の水防対策としては「石囲い」や石垣による住居嵩上げで防衛策を取った。石井町に現存する「田中家住宅」は石垣で囲まれた江戸時代の屋敷構えを残し、国の重要文化財に指定されている。
  • 吉野川・勝浦川の河口干潟は「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ」に参加している。
  • 9ヵ国の政府(日本、豪州、米国、韓国、ロシア、インドネシア、フィリピン、シンガポール及びミャンマー)と、ラムサール条約事務局等の国際機関、国際湿地保全連合等の国際NGO等、計16主体が参加し、2006年11月6日にインドネシア・ボゴールにおいて開催された「渡り性水鳥、湿地及び地域住民に関する会議」(新パートナーシップ発足式)において、「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ(渡り性水鳥保全連携協力事業)」がはじめられた。渡り鳥の保護については、これまで二国間条約・協定(米国・豪州・ロシア・中国)に基づく二国間協力のほか、多国間協力の取組としては「アジア太平洋地域渡り性水鳥保全戦略」に基づき、渡り鳥の生息地の国際的ネットワークの構築等の取組が行われてきたが、これを発展させるもの。


②阿波しらさぎ大橋

  • 川幅1キロにおよぶ吉野川と橋の下にある河口干潟をバスから見る。
  • 橋長1,291m。2012年4月25日に開通。
  • 当初は水底トンネルによって干潟を回避する案も検討されたが、かさむ建設費や付近を走るメジアンライン等(中央構造線)の問題があったため、最終的には橋梁案が採用された。この計画には、干潟を守るためのさまざまな工夫が盛り込まれている。
  • 干潟の上にあたる部分を吊り橋にすることで橋脚の数を減らし、干潟への影響を最小限に抑える。独自の工法であるため、「ケーブルイーグレット(イグレット)工法」と名付けられた。「イーグレット」とはシラサギのこと。
  • 主塔の高さを29.5mと出来るだけ低くし、ケーブルの本数についても1本と従来より少なくすることによって、シギ科、チドリ科等の野鳥の飛来に影響を及ばさないようにする。
  • 高欄照明を採用することで、夜間、橋上以外に光が漏れないようにする。
  • 施工段階においては、桟橋を用いるのではなく台船を浮かべて工事を行う。これによって、干潟への直接的な影響を避ける。


③川内町富吉の蓮田

  • かつてナベツルが越冬したことがあった。
  • 川内町の東側(海側)はサンドポンプによる砂地畑造成によって鳴門金時の畑になっている。
  • 鶴島という地名もある。


④川内町平石の蓮田

  • 平石の地名の由来は、大阪城築城のための石材を運ぼうとしていた船が浅瀬で座礁して、航行不能となり、ここに大きな平石が長らく取り残されていたためという。


⑤今切川・加賀須野橋

  • 旧吉野川から分岐している今切川。川の蛇行する様、「今は切れている」という名前が暴れ川ぽい。
  • 洲や須という地名が多い。これは川が縦横無尽に自由に流れたあとにできた中洲地形・島地形に由来する。
  • 江戸時代から「下寄街道」とよばれ、交通の要所であり、渡船が運航していた。初代(1888年、明治21年)地元有志により民営の賃取橋ができる。2代目(1923年、大正12年)県に移管され新設無料化。3代目(1954年、昭和29年) 跳上式開閉橋になる。1961年、昭和36年、幅を広げる改良がされる。4代目(2014年8月8日)橋桁が水平のまま上昇する昇開式の現在のものになる。車道橋としては日本一長い可動部(44.1m)である。2位三重県江の浦橋(30.0m)、3位秋田県の大潟橋(16.3m)、歩道専用橋としては熊本県の瀬戸歩道橋(50.0m)が国内最大。


⑥松茂の新田開発

  • 吉野川下流域は稲作より藍作が多かったが、藩も藍作を奨励はしたが、お米を作らさなかったわけではなかった。人口増加や天候不順に伴う飢饉の頻発、藩財政の逼迫等複合的要因から新田開発による年貢増徴を藩は図ろうとしたが、実情は藩主導というよりは筑後川と同様に庄屋等の民間主導によるものであった。
  • 17世紀中頃に大坂の豪商・三島泉斎によって着手された笹木開拓は、洪水や波浪によって事業は頓挫し泉斎は破産。その後数代を経て難工事は完成した。
  • 続く1783年(天明3年)には伊澤亀三郎による開拓が行われた。これは大坂の豪商・鴻池家の援助により行われ、子の伊澤速蔵・孫の伊澤文三郎の3代に亘り笹木開拓地の北端・西端に石積み堤防を築き波浪・洪水を防止、開拓を成功させた。これを住吉新田と呼び現在でも伊澤家3代の遺徳が偲ばれている。
  • さらに1804年(文化元年)には坂東茂兵衛によって豊岡開拓が行われ、防潮・防風を目的に20万本の松を植林し築堤。今切川下流の新田開発を図った。この開拓は孫で今切川用水裁判人の役職に就いていた豊岡茘敦(れんとん)によって完成を見た。


⑦川砂をサンドポンプで吸い上げて造成した砂地客土畑

  • 亀谷登氏(鳴門市大津町大代・大正8年生まれ)の提案によって、南海大地震で地盤沈下した田んぼに旧吉野川の川砂をサンドポンプで吸い上げて砂地畑を造成する計画をし、稲作転換事業として国の許可を得て、昭和44年(1969年)に106haを造成する。造成砂地畑には、隣の里浦を見習い夏は鳴門金時、冬は食用大根を作付、1年で工事費を取り戻すほどの稼ぎを生み出した。これは数年の内に、大津の残りの地域、松茂、川内に広がり、1000haが造成された。戦時中、川を浚渫することができなかったので、吉野川の支流には大量の砂が溜まっていた。この客土事業は、稲作転換事業として奨励され、国の補助や融資が受けやすく、稲作転換の成功例として全国に宣伝された。この1000haの砂地畑の平成10年(1998年)の生産額は約120億円。徳島県の耕作面積26,428ha・総生産額は1,890億円。鳴門地方の砂地畑の面積は徳島県の耕作面積の4%だが、生産額は6.3%を担っている。
  • 立石一著『阿波型農業物語』2007年・徳島県農政クラブより


⑧鳴門市段関の蓮田


⑨旧吉野川

  • 塩害対策の可動堰によって淡水化されている。
  • 河岸には木々が生い茂り、人為的攪乱が少なく自然生態系が戻ってきている。


⑩JA徳島北津慈集出荷場

  • レンコン栽培の実際について徳島県の営農普及センター担当の方からレクチャーを受ける。
  • 徳島のレンコン栽培は、日本で2番目。1番の茨城県の作付面積は3分の1くらい。出荷量は5分の1くらい。周年で出荷でき、大阪市場では9割が徳島産。
  • 大正8年に松茂町の農家佐藤竹太郎氏が岡山県から種レンコンを導入したのが始まり。
  • 昭和21年の南海地震による地盤沈下で、水稲が塩害を受けたことで、比較的塩害に強いレンコン栽培が広まる。
  • 昭和44年から始まる減反で、レンコンが奨励作物になり、水田からレンコンへの転作が増加。レンコンと収入と転作奨励金のW収入があった。栽培面積は昭和45年頃には1000haを超える。現在は600ha。
  • 初期のレンコン畑は鳴門市大津、松茂町、徳島市川内町であったが、この地帯は昭和46年より、砂地畑の造成が始まり、レンコン畑は少し内陸の鳴門市堀江、大麻、板野町、上板町、藍住町と吉野川低湿地帯へと移っていった。
  • 昭和58年にはレンコン掘り取り機(小型バックホー)昭和62年には自動洗浄機が導入されたことにより、作業の省力化が非常に進んできた。
  • 儲かるので、会社化でき後継者もいる。新規に参入したい人も受け入れたい。
  • 地元の小学校が子どもが少なくて廃校になってしまった。レンコンを盛り上げることで、若い世代を増やし、小学校を復活させたいとのこと。


⑪鴨原のコウノトリの巣

  • 津慈集出荷場から歩いて見に行く。今年は卵は産んだが、孵ることはなかった。無精卵だった可能性もある。また夫婦ゲンカをしてメスは兵庫県に帰ってしまったが、現在も巣が健全に保たれているのは、別のメスがフォローしているため。


⑫野神の産直市場(トイレ休憩)

  • 人口26万人の徳島市のベットタウンとして人口が増えている藍住町には、徳島県最大のショピングセンターゆめタウン(延床面積:12万5,000m²・施設面積:4万0000m²)がある。この農産市場は、そのゆめタウンから北に3㎞離れている。
  • 藍住町は1965年頃までは人口は減り続け、一時期は1万人を割り込んでしまったが、その後、住宅開発が盛んになり、1985年には2万2000人を超え、2000年には3万人を超えた。
  • 徳島市を中心とする北環状線道路が町の中心を走り、田園風景は住宅地と商業地に変わってしまった。


⑬藍住町住吉

  • 源義経が通った道を逆走する。平家を経済的に支えた阿波の豪族田口氏は、宋との貿易港である大和田の泊をつくり、福原京を造営した。その財力の源は吉野川平野であった。源平の合戦のとき、屋島を攻めるために、源義経は小松島に上陸し、田口氏の城を攻め、人質をとったため、平家は屋島を捨て敗走し、壇ノ浦の合戦のときに阿波水軍は平家を裏切り、源氏に勝利をもたらした。
  • 細川氏の家臣三好氏は吉野川平野の経済力を背景に、大阪に堺幕府を開いた。織田信長は三好長慶の堺幕府を手本に天下取りに進んでいったと考えられている。
  • 藍住は幅3mのトンネル栽培の春先人参の産地。人参の前には、漬物用のウリ、沢庵用大根の一大産地であった。阿波沢庵は神戸での販売が当たり、大正時代の「麦飯に沢庵」の時代に全国制覇を成し遂げる。この時、徳島の沢庵屋は、全国の漬物屋と婚姻関係を結んだ。その名残が、信州野沢菜漬けの原料野沢菜の産地、奈良漬の白ウリの産地として残っている。徳島に沢庵漬けが広まったのは、鳴門の塩と藍で培った発酵技術、阿波晩生という沢庵に適した品種、大根栽培に適した土壌、藍の時代に大根はワラと交換できる重要な作物であり、盛んにつくられていたこと。化学染料によって藍が衰退した後、多くの藍玉の発酵床が沢庵漬けの樽を置く場所に変えられた。