●コース
②の続き
田浦より県道33号線を東へ、国道55号線を南へ、「立江橋」の手前でJA産直あいさい広場へ寄る。国道55号を南へ、瀧口さんの有機水田を見学、国道55号を南へ、「那賀川大橋」を渡らず、那賀川北岸堤防道路を西へ、「大京原橋」北詰めより、県道128号線を北へ、県道136号線を西へ、JA産直あいさい広場まで戻る。
①金磯新田
- ナベヅルが越冬していたという記録がある。
- 金磯町の近世の豪農多田家は農業と回船業を営み。この金磯地域が堤防の外側にあり、しばしば洪水や高潮の被害を受け、人々を苦しめていた為、三代目助右衛門は元禄2年(1689年)、現在のJR南小松島駅から阿波赤石駅の北方までの区間の西側一帯の干拓、開拓を開始した。助右衛門の意志は代々引き継がれたが、一時期は田畑や回船、自宅までも売り払ったという。しかし着実に進む開拓は徳島藩からも認められ、七代目助右衛門時には苗字帯刀が許され、九代目にして、150ヘクタール余りの新田が完成し、藩主によって「金磯新田」と名づけられた。
②JA産直あいさい広場(トイレ休憩)
- JA東とくしまが運営する年商12億円の産直市場。週末には京阪神からのドライブ客やお遍路さんを乗せた観光バスも多く立ち寄る。
③江田島のドングヮン
- 10月16日に火振り祭がある。若宮大明神から羽村大明神までの約300m間を、大人や子どもたちが松明を打ち振って走る。言い伝えによると、那賀川町江野島の川にドングヮンが棲んでいた。ドングヮンはタガメのような姿をした怪物であったといわれる。地域の人は、コオイムシをドングヮンとよぶことがある。ある時、いたずらをして村人に捕えられたドングヮンは、将軍の田村に助けらる。それ以来ドングヮンは、子どもを食べないことを約束し、将軍が亡くなった時には、一族で墓まで松明を照らし、打ち振って行ったという。それより村は、平穏に過ごしている。江野島では、この将軍を羽村大明神、ドングヮンを若宮大明神として祀っている。村人はドングヮンの一族が約束を忘れないようにと、毎年、火振り祭りを行っている。
④那賀川町今津浦
- 江戸時代、阿波水軍の水夫たちが住まわされていたところで、町割りが長方形のマス目、碁盤の目になっている。長屋がたくさん立てられていたと考えられている。
- 大久寺は今津城跡。天守山という小山として残っている。かつての城主は平井対馬守で、天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の軍勢によって攻め落とされたという。城の周りには堀がめぐらされ、町は幅3~4間の道路によって平均75坪の広さに碁盤の目のように区切られ、居内、本町、新町などの町名にも城下町の名残をとどめていて、きわめて戦略的につくられた町である。
- 今津浦免許という地名は、今津城の殿さまが鷹狩の途中で腹痛になり、動けなくなったとき、助けてもらったお婆さんが「冥加料(税金)を払いたくない。」というので、助けてもらったお礼に税金を免除した。それ以来、免許という地名になったという。
- 城郭放浪記(阿波・今津城)HPより
- 那賀川町の伝説(郷土研究発表会紀要第41号)HPより
- ふるさとの伝承(徳島県)HPより
⑤瀧口さんの田んぼ
- 瀧口さんは元宮大工さん。宮大工の仕事をしながら、お米は作っていたが、宮大工の仕事が減ったため、お米作り一本となった。建築の現場は新建材が多く、木と対話しながら作っていくというやり方はとても難しくなってきた。それよりは稲と対話しながらの米作りの方が面白いという。
⑥島地名と見地名
- 北岸には江野島・島尻・色ヶ島・手島・出島・中島・平島・藤島といった島地名が多い。那賀川デルタ地帯にあり、周囲を川に囲まれた中洲島になっていた。南岸にも柳島・南島がある。
- 南岸には七見・西路見・横見の見は水のことで伏流水が上にたまった土砂の圧力で湧水となって湧き出していたところ。
⑦那賀川
- 高知県に源流のある吉野川の徳島県内の幹川流路延長は109kmであり、徳島県内の長さの順位としては125kmの那賀川が第一である。
- 徳島県那賀郡那賀町木頭北川の剣山山系ジロウギュウに源を発し、高の瀬峡を経て南流ののち東流。北東流に転じる中流域では著しく蛇行する。平野に出る下流域で再び東に向きを変え、阿南市辰己町と阿南市那賀川町中島の境界から紀伊水道に注ぐ。徳島県唯一の県内に源流があり流域が県内のみで県内だけを流れる一級河川である。
- 暴れ川吉野川が「四国三郎」と呼ばれるように、暴れ川那賀川を「阿波八郎」と呼ぶことがある。吉野川下流が藍作であったのに対し、那賀川下流は米作地帯であった。那賀川流域は阿波の南方とよばれ、吉野川流域である阿波の北方とは、文化も人情も違うといわれる。大化の改新(645年)以前は、那賀川流域に長国があり、吉野川流域の粟国とは別の国であったという。
- 河口から10キロ上流に北岸堰がある。北岸堰の名前の由来は、羽ノ浦・那賀川・小松島の那賀川の北岸地域約2,500haに水を供給しているため。国営那賀川北岸土地改良事業により、昭和30年(1955)に完成した固定堰。
- 那賀川下流域は洪水時は天井川となる。
- 津波対策のため大規模な堤防強化事業が進められ、そのミチゲーション(代償処置)として人口干潟が作られた。
⑧那賀川大橋
- 橋長:579m。完成年:1993年(平成5年)。上部工形式:鋼桁橋+PC桁橋。
⑨那賀川の連続堤防と取水堰
- 吉野川同様、那賀川が現在の形になったのは連続堤防の完成と共に、流路が現在のものに固定されてから。
- 下流南岸の柳島町、横見町一帯の用水不足を解消するための乙堰(明治19年【1886年】)や阿南市吉井町の63haを 灌漑する大西堰(明治23年【1890年】)が造られるが、取水量が多くなった分だけ渇水時における水不足も増え、あちこちで水争いが起こるようになった。特に北岸の 大井手堰と南岸の竹原堰の水争いは深刻で、明治27年(1894年)には投石による負傷者が続出し警察が制止に入るという大事件となった。
- 那賀川に連続した頑丈な堤防を造るためにはいくつかある取水口に対しては障害となる。こうした、取水と治水は一体のものであるとする考え方も徐々に認められるようになり、大正7年(1918年)、新聞紙上で南岸統一用水路の提案が農民から出される。
- 政府でも抜本的な改修の必要を認め、四国では四万十川、肘川と並んで直轄改修の河川として選定され、調査も始るが、財政的な問題もあり、本格的な改修工事が始まるのは昭和7年(1932年)になってから。
- 南岸は「一の堰」約300ha、「竹原堰」567ha、「乙堰」165haの3つの堰を統合する南岸堰を、県営事業として昭和13年(1938年)に計画が立案。翌年に工事が始まるが、戦時中の資材不足などから12年の歳月を要し、ようやく完成を見たのは戦後の昭和29年(1954年)でした。幹線水路5,876m、計1,037haを潤す用水。
- 北岸堰は「上広瀬堰」「大井手堰」「下広瀬堰」の3つを統合し、計2,500haの灌漑用水として昭和23年(1948年)、国営事業として着手され、昭和30年(1955)に完成する。
- 那賀川平野の農の礎HPより
⑩那賀川の河原
- 越冬するナベヅルがねぐらとして中州をつかっている。
⑪大京原橋
- 橋長:391m。完成年:1974年(昭和49年)。上部工形式:鋼トラス橋(3径間連続直弦ワーレントラス2連を上弦材を繋ぎ6径間が連続しているように見せている。)
⑫早場米のはじまりと広がり
- 柏木清氏(阿南市見能林町・大正8年生まれ)は、秋落解消を目標に、早期水稲を7haも栽培し研究していた。昭和38年(1963年)の徳島県主催の米作り多収穫競技会において、品種藤坂5号を使って四石三斗七升五合を上げて、県下1位となる。これをきっかけに見能林では早期米が盛んにつくられるようになり、大阪の正米市場がこれに飛びついた。梅雨を超えて、前年度に取れた米が古くなりまずくなるが、これに新米を混ぜて風味付けをすると、味がよくなる。徳島の早場米は「味付け米」として高い値段で買われることになった。徳島県は開闢以来、ずっと米が足りない不足県であり輸入県であったので、早場米が県外に売れてということは大ニュースであった。昭和40年はお米の不作年であり、翌昭和41年からは米の1割増産運動が展開され、日本のお米は足りないと農家は思っていた、そこに昭和45年から減反が始まる。昭和40年(1965年)には、1人あたり1日306.2g食べていたのが、昭和50年(1975年)には240.6gに、昭和60年(1985年)には204.3gに、平成10年(1998年)には178.5gまでに減った。
- 立石一著『阿波型農業物語』2007年・徳島県農政クラブより
- 農林中金の専務を務め、農協の組合運動を指導し育て、晩年、日本有機農業研究会を立ち上げ、産消提携運動を推進した一楽照雄氏の故郷は羽ノ浦町岩脇である。田村家から一楽家の養子となり、運動会があるからといって運動靴は買ってくれなかったが、上の学校に進学することは反対しないという環境であったので、東大へ入るが、卒業して官僚になる気がしなかったので、銀行家になったという。一楽家は庄屋で、台風や旱魃で、お米が獲れないとき、小作人が生活に困って金を貸してくれと来るが、次の年に倍獲れるわけではないので、お金を貸す条件としてワラ縄・ムギ縄でつくるムシロ旗の織り機を貸してあげて、ムシロ旗をつくることでお金を返す目途をつくってあげていたという。このことが、銀行家一楽が飢饉に喘ぐ東北や北陸に、熱心に地場産業を育成し、「達者で長生き」をテーマに、農協の組合組織づくりを熱心に展開した根底にあると考える。ゴーダッチといえばワリカンのことであるが、なぜ「オランダ風で行こう」ということがワリカンを意味すのか?オランダは低湿地帯で水害に合うことが多く、災害に合うことで人々は助け合うことが自然にできるようになるという。徳島の風土は、吉野川や那賀川が育てたものであり、それは災害に合うことで、人と人との間に自然と助け合う精神が育まれていったものなのかもしれない。
- 農文協編『暗夜に種を播く如く~樂照雄協同組合・有機農業運動の思想と実践~』2009年・農山漁村文化協会より
- 那賀川下流域には、多くの水神をまつる小さな祠がある。(古庄・岩脇・西園・上中・野神・明見・古毛・持井・西原・北大京原・辰巳・横見・南大京原・小田・下大野・柳島・清松・久留米田・林崎などに水神の祠がある)特に岩脇・古庄の水神社の祭日(8月16日)には、1000発の花火が打ち上げられ、那賀川の土手は大勢の人で賑わう。
- 万代堤は、1787年に庄屋の吉田宅兵衛が私財を投じて北岸に築いた約1kmの大堤防。宅兵衛の孫は、堤防を守るため600トンもある大岩を山から川に投入たという。
- 那賀川下流域には多くの「だんじり」がある。江戸時代、藩は産土神社の秋祭りに那賀川の両岸、大野と古毛、岩脇と南島、古庄と柳島という組み合わせでだんじりを出させた(出祭り)。これは対岸同士の友好を深め、水争いをなだめるためであったという。
- 堰を開けて斬首された百姓を弔う三栗の首塚。藩に無断で分水を試み刑死した銅蔵を弔う銅蔵原。人柱になった囚人を弔う古毛の弁天など、水にまつわる多くの悲話が残っている。
- 人柱の伝説が語り継がれてきた野神の水神社。昭和の工事では伝説どおり古い人骨が発見されたという。
- 佐藤良左衛門は水不足に苦しむ村を救うため水路の開削を決意。20年近い歳月をかけて広瀬用水を完成させる。しかし、藩の許可なく造ったために、良左衛門以下10数名が牢屋に入れられ、良左衛門は無許可工事を黙認してくれた郡奉行に災いが及ぶのを恐れ、責任を一身に背負って獄中で服毒自殺したという。
- 大井手堰を造ったのは良左衛門の祖父である。困難を極めた工事に娘が人柱を申し出る。村人の制止にもかかわらず、娘は村の幸せを祈って棺に横たわった。いざ埋める間際、藩の使者から、娘の代わりに埋る仏像が届けられる。涙を流しながら村人は石に凡字を刻み、仏像ととも埋めた。石の数は1,080個に及んだという。
- 明治26年の渇水では、大井手堰掛りの農民は手に鍬を持って集合、竹原堰から大井手堰まで20町(約2km)を砂洲を掘り、水を引いた。これを聞いた南岸の農民もすぐさま埋めにかかり、両岸入り乱れての大乱闘となった。警官の制止にもかかわらず、乱闘は3日間も続き、翌日の雨で治まったという。
- 那賀川下流域では小作率が非常に高く平均60%を占めていた。明治になり租税改正が行われ、地代納税は年貢よりも厳しく、明治から大正にかけて小作争議の多発地帯となった。徳島県は北海道への移住者が5万人ととても多い県としても知られている。徳島県からの北海道移住者に占める那賀川下流域の人の割合は2割以上と、とても多い。
- 那賀川平野の農の礎HPより
- 四国遍路19番札所である鶴林寺の縁起によると、弘法大師がこの山で修業をしていたおり、老杉の木の上で、夫婦の2羽のツルが地蔵菩薩を守っていたという。弘法大師さんは、ツルが守っていた5.5㎝ほどの小さな黄金の地蔵菩薩を見て感動し、その近くにあった木で90㎝ほどの地蔵菩薩像を彫りあげて、その中に小さな黄金の地蔵菩薩を納めたのだという。木の上の夫婦のツルはコウノトリのことだろうと考えられる。
- 釈迦が入滅の際に、沙羅双樹の葉が鶴の羽のように白くなった言い伝えから、「鶴林」は釈迦の涅槃をも意味する。霊鷲山・宝珠院・鶴林寺という。ちなみに霊鷲山(りょうじゅせん)は、インドのビハール州のほぼ中央に位置する山。釈迦仏が無量寿経や法華経を説いたとされる山として知られる。現在のラージギルの東方にあるSaila-giriの南面の山腹にあり、現在はチャタ山と呼ばれている。釈迦仏が在世した当時では、マガダ国の首都だった王舎城(ラージャグリハ)の東北、ナイランジャナー(尼連禅河=にれんぜんが)の側にある小高い山である。この山は長らくの間、場所も忘れられていたが、1903年(明治36年)1月14日朝、大谷光瑞が率いる第1次大谷探検隊が朝日に照らされたこの山を仏典上の霊鷲山と同一と確定した。数年後のインド考古局第3代目の長官ジョーン・マーシャルの調査によって国際的に承認された。かつてビンビサーラ王も、車を降りてその参道を登ったといい、王の要請により布薩制(ふさつ、懺悔の儀式)を設けられた。
- 「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つ。延暦17年(798)に桓武天皇の勅願により弘法大師が創建。平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正(1573~92)の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。